吾妻(あがつま)神社

吾妻郡中之条町横尾1354-1(平成22年5月30日)

東経138度51分52.55秒、北緯36度35分16.9秒に鎮座。

 この神社は中之条駅の北東約1.2km、145号線沿いに鎮座しています。入口には「郷社吾妻神社」と書かれた社号標と、朱の鳥居が立ち、真っ直ぐに伸びた参道奥に随神門が建立されています。
 随神門を潜ると広々とした境内で、右手には神楽殿が配され、正面には狛犬と拝殿。千鳥破風が付けられた大きな拝殿には多くの絵馬や句額、算額が奉納され、中之条町の重要文化財に指定されています。
 又、拝殿、本殿共に精巧な彫刻が素晴らしく、実は先週もこの社に参拝したのですが、雨のため思うような写真が撮れず、再度、参拝の運びとなったのです。
 郷社という旧社格に相応しい、落ち着いた雰囲気の中にも品格が感じられる神社で、由緒に明治期に近郊の151社もの神社を合祀したと書かれているのにはビックリ!

 御祭神:大穴牟遅命(大国主命)
 祭礼日:4月1日
 由緒:当社の創祀は、上古の時代なることは当社の資料に依り立証せらるるも、文化9年4月13日社殿祝融に災に会い旧記古文書凡て焼失せし為詳細に知るを得ざるは吾人の最も遺憾とする処なり。
 中古以前にありては本殿は現在地の南西参丁を距てし御洗水山の頂上に鎮座し現社地は拝殿の所在地たりき。然るに中古以後現社地に奉遷せしは旧社地は険阻なる丘上なりしを以て、諸人参拝の不便なりしが為なるべし。
 本社の社名は中古以前にありては和流宮と称し奉れり。蓋し和流は唐流に対する大和流の義にして本社の主神は大穴牟遅命(大国主命)に座ます。然るに中古に至りて、社名転訛して割宮(天正18年当社古記録)と称し、或は和利宮(貞享3年当社古記録)と称するに至る。
 明治維新後地方各村に亘り、村社6社、無格社18社、境内末社127社、合計151社を当社に合祀し同時に従来の俗称たりし吾妻大社なる尊称を踏襲し吾妻神社と認可改称せられたり。
旧社格 郷社
社殿の造営 文政4年4月1日
(境内由緒書きより)

歴史はゆかし和利宮
 元郷社で社殿の彫刻が素晴らしい。天保8(1837)年の絵馬、文政6(1823)年の句額(近郷の俳人達の肖像画)、明治11(1878)年の算額等が奉納されており、化政期の俳人動向を知る貴重な資料です。
 大字横尾に鎮座するこの社は、もと和利宮(わりのみや)と呼ばれる郡内の大社で、昭和 3(1928)年に郷社に昇格しました。
 和利宮は、和利嶽(わりのたけ)と呼ばれた嵩山(たけやま)と関連深い社です。南北朝時代に成立した『神道集』の中に「上野国子持山之事」という一節があり、子持山大明神を中心に吾妻の神々の縁起が記されています。
 伊勢国阿野津の長者阿野保明は、伊勢神宮子守明神に参詣して得た娘に、子持御前と名付けました。成人して加若次郎和利(かわかのじろうかずさと)と結婚し、二人で伊勢神宮にお礼参りに行きました。これをかいま見た伊勢国司は横恋慕し、夫の加若和利を謀反人として下野国へ流刑にしました。子持御前は夫を救うため東国に下り、熱田・諏訪大明神の助力を得て救出、和利の伯父(おじ):藤原成次のいる上野国山代荘(吾妻郡)で再会しました。
 このあと、諏訪大明神から神道の法を授けられて、関係者は神としてまつられ、子持山(子持御前)・嵩山(夫の和利)・鳥頭宮(若君)・山代明神(伯父:藤原成次)・中山の半手本明神(供の女房)・青山の駒形明神(若君を乗せてきた馬)・市城の白専馬明神(馬を引く供の人)となりました。これらの神々は、『吾妻七社明神』と呼ばれています。
 この中心が和利獄と呼ばれる嵩山の神で、山頂に奥宮、ふもとに親都神社があります。里宮の和利宮は、嵩山の神を信仰する有力な豪族塩谷氏により、戦国時代の弘治2(1556)年、御手洗山(みたらしやま:現在の伊勢町)から現在地の横尾に移されたと伝えられています。
(「中之条町観光協会公式サイト」より)

社頭
入口に立つ明神鳥居 社号標
「郷社吾妻神社」
参道の様子
随神門
境内の様子
拝殿前にいる岡崎現代型狛犬
拝殿
拝殿彫刻拡大写真はこちらで
拝殿内の様子
本殿
本殿彫刻拡大写真はこちらで
末社 町重文篁庵(高橋景作)追遠碑
忠魂碑 石碑
参集殿? 神楽殿

町指定重要文化財・献額




(境内案内板より抜粋)

社殿左右の鎮守の杜の様子
絵馬