長屋神社

本巣市長屋 (平成23年11月20日)

東経136度40分14.92秒、北緯35度28分33.77秒に鎮座。

【神社情報・Rumarin&Saiseiさんより】
本巣駅の南西1km、県道156号線沿いにあります。周辺には畑が多く社叢は広いので、遠くからでもよく目立ちます。

祭神 建速須佐之男大神、櫛名田比賣之神、須賀之八耳之神

社叢に入ってすぐの所に大きな境内社があり、正徳四年の古狛犬が低い台座に乗せられて社殿を守っています。頭には盃状穴とみられる窪みがあります。参道には樹々の隙間から日が降り注ぎ、太鼓橋の下には小川が流れ、地面は苔むしていて、清々しい気分を味わうことができました。社殿は拝殿・幣殿・本殿にしっかりと分かれていて、幣殿の前にはこれまた古そうな狛犬がいますが、製作年を確認できませんでした。本殿の正面には十二支が彫られていますが、何故か酉に始まり申で終わっています。その他にも力士や故事に因んだと思われるものなどたくさんの彫刻が施されています。石の前には延宝元年の燈籠が建ち、古くから信仰されていることがわかります。余談ですが、本巣市の「市の木」は柿で、隣の瑞穂市は富有柿のふる里です。そんな柿の一大産地らしく、鳥居の先にある末社には柿が供えられていました。(因みに、瑞穂市の市の木はサクラ)あと、八王子神社の祭神が大山津見神となっているのが気になりました。

由緒 創立 永正の頃(後柏原天皇)
当時は本巣郡今部郷と稱した。当郷神下路の地、杉之社の鎮座していたのを天文元壬辰年(後奈良天皇)に相羽城主長屋大勝亮景興がこの地に勧請した。
天文十六丁未年相羽城落城の時、当村に引移り現在に至る。
文禄元禄両度の大災に、宝物記録を消失したが、元禄四年に当村の小野市郎左エ門が願主となり再建された。
又、記録に依れば、大垣藩主御崇敬の神社で毎年六月祭禮の折代参があった。同時に、御供米壹石御寄進、及び代官より御供料もあった。
往古より疫除竝に武勇の神として遠近の参拝者が多かった。慶應四戊辰年長屋牛頭天王と改号されたが明治二己巳年より現在名に復し、明治六年郷社に列した。
長屋神社歴碑 より

永正年間に創建された神社である。1532年(天文元年)、相羽城城主長屋景興により現在地に移転し、城の守護神とするが、相羽城が1545年(天文14年)に斎藤道三に攻められて落城すると、1547年(天文16年)より地元の村民の手で管理される。
1688年(元禄元年)に社殿は焼失する。現在の社殿は1691年(元禄4年)の再建である。
1868年(慶応4年)、長屋牛頭天王に改称するが、1869年(明治4年)に長屋神社の名に戻されている。
ウィキペディア より

長屋神社祭礼
古くは牛頭天皇と称されていたが、明治二年に現在の神社名に改名された。豪族、長屋氏が天文元年(1532)に、勧請したという。祭礼行事の起源は定かではないが、中世にさかのぼる可能性がある。
八月一日が試楽、二日が本楽で、行事は「一本茶漬」「神輿の渡御」「山車の稚児舞と獅子舞」「馬駆け」の四つから成っている。
「山車の稚児舞と獅子舞」は山車の舞台で稚児二人(五、六歳)と小獅子(七、八歳)大獅子(九、十歳)、総太鼓(同)、太鼓(十一、十二歳)一人づつが古い形式をとどめた舞を演じる。
「馬駆け」は、白、紫、赤の三色の稚児衣装を重ね着した乗子(かつては子供)が乗馬。拝殿から鳥居までを花笠をふりつつ花吹雪を散らすなどして駆ける。これらの祭礼は同神社文化財保存会が伝承している。

参道入り口

社号標

参道脇の末社と柿

参道

参道脇社

脇社を護る素朴な狛犬
 頭に開いた盃状穴
(正徳4年(1714)甲午建立)

太鼓橋と小川

境内

拝殿

奉納の剣

幣殿

幣殿前の狛犬
(年代不明)

本殿

十二支が彫られている本殿正面。本殿彫刻の拡大写真はこちら。

市指定天然記念物、長屋神社のナギ。

元宮・杉之森社

天満宮

池大明神神社

不明末社

石(瘡神神社か)

穀供殿か

燈明所か

山車舎