夜叉龍神社

揖斐郡揖斐川町坂内川上地蔵平(平成19年10月初旬)

【狛犬情報・沼波定治様より】
 川上・白髭明神社の調査の折り、現地近くに鎮座するこの社の参拝もされたご様子で、写真と資料を戴きました。


 福井県側では九頭竜川の支流の一つ・日野川の、岐阜県側では揖斐川の支流・坂内川の水源地といわれ、泉 鏡花の小説「夜叉ヶ池」や安八大夫の伝説で有名な夜叉ヶ池に最も近い人里のこの地に、池の守護 高寵(こうらい・本来はウ冠ではなく雨冠です)神を奉斎する社です。
 この地には嘗て夜叉姫が髪を洗ったといわれている「お洗い池」(髪洗池)が存在していました。 戸田氏初代の大垣藩主・氏鉄公は、西美濃の治水工事に力を尽くしましたが、夜叉ヶ池水乞い伝説に感銘し、正保4年(1647)、姫 縁の「お洗い池」のほとりに里宮・龍神社を創建しました。その後大垣藩領治水の鎮守として歴代藩主の崇敬篤く、時々の修復 建て替えも藩の奉献に依っています。
 明治28年「ナンノ坂」が大崩落をして坂内川に堰塞湖(自然のダム)が出来、大雨の時にその堰が決壊し、川上村の大半の民家や夜叉龍神社もお地蔵さんも流失してしまいました。暫くは神霊を長昌寺に祀っていましたが、後、明治44年(1911)、川上の八幡神社に遷座されました。
 昭和9年(1934)揖斐川電工株式会社(現イビデン株式会社)が川上発電所を開設するに際し、この地蔵平の故地に夜叉龍神社を復興しました。

 御祭神の高龗(たかおかみ)神は、日本神話に登場する神で、罔象女神とともに、日本における代表的な水の神です。神話の神産みにおいて伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に、古事記及び日本書紀の一書では剣の柄に溜つた血から闇御津羽神とともに闇龗神が生まれ、日本書紀の一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が、高龗神であるとしています。「龗」は龍の古語であり、龍は水や雨を司る神として信仰されていました。「闇」は谷間を、「高」は山の上を指す言葉です。
 近隣には、岐阜県安八郡神戸町・夜叉堂(夜叉龍神社の別名)、福井県南条郡南越前町の夜叉ヶ池の畔に同名社が鎮座しています。

 夜叉ヶ池の伝説
 「817年(弘仁8年)、この年の美濃国平野庄(現岐阜県安八郡神戸町)は大かんばつに見舞われ、あらゆる作物は枯れる寸前であった。ある日、郡司の安八太夫安次は、草むらの中に小さな蛇を見つけ、ため息まじりで、「もしそなたが雨を降らせるのなら、私の大切な娘を与えよう。」と語った。
 するとその夜、安次の夢枕に昼間の小蛇が現れ、「私は揖斐川上流に住む龍神だ。その願いをかなえよう。」と語った。すると、たちまちのうちに雨雲がかかって大雨が降り、作物は生き返り村は救われた。
 翌日、約束どおり娘をもらう為、小蛇(=龍神)は若者の姿に変えて安次の前に現れた。安次には3人の娘がいたのだが、安次が娘たちに事情を話すと、一番心がやさしい次女(三女の説もある)が、「村人を救っていただいたからには、喜んでいきます。」と答えた。驚いた安次は、「何か必要な物はないのか。」と問うと、娘は、「今、織りかけの麻布がありますから、これを嫁入り道具にいたします。」と答えた。
 こうして娘は龍神の元へ嫁ぐことになり、麻布で身をまとい、若者(=龍神)と共に揖斐川の上流へ向かっていった。
 数日後、心配した安次は、娘に会う為に揖斐川上流へ向かった。やがて、揖斐川上流のさらに山奥の池に龍神が住むという話を聞き、その池にたどり着いた。安次は池に向かい、「我が娘よ、今一度父に姿を見せておくれ。」と叫んだ。すると、静かだった池の水面が波立ち、巨大な龍が現れた。龍は、「父上、これがあなたの娘の姿です。もうこの姿になったからには人の前に現れる事はできません。」と告げ、池の中に消えていった。
 安次は龍となった娘を祀る為に、池のほとりと自宅に、龍神を祭る祠を建てた。
 この娘の名を“夜叉”といい、池の名を娘の名より“夜叉ヶ池”と名づけたという。」
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

地蔵平の国道303号線から夜叉ヶ池への分岐点に祀られているお地蔵様。
道標には直進→八草峠8.5km、右→夜叉ヶ池10kmと書かれています。
社号標 神社入口
社殿
高い台座から見下ろしている岡崎現代型狛犬