高田神社

飛騨市古川町太江神垣内(平成17年8月21日)

この神社は高山本線・杉崎駅から75号線で踏切を渡り、なおも1km程進むと左手に鳥居と玉垣が見えます。ここは式内社で主祭神は高魂命、相殿神は白山比命、建御名方命、賀茂別雷命、天津彦根命です。由緒は長くなりますので下記にてどうぞ。参道が長く、立派な鳥居や境内で、また全体が綺麗に整備されており、式内社としての格式を感じさせる雰囲気を持っています。

道路脇参道入り口

境内入り口

境内脇にある飛騨国司姉小路敬彰碑

社殿

いました飛騨イノシシ狛犬です。
これも辻ヶ森三社神社等の狛犬と類似しているので高忠さんの作品でしょうか?

神使い・雉のレリーフ

神社案内板より
御由緒
当神社の境内近くに五千年前縄文時代中期の聚落跡と見なされる五番屋敷遺跡があり、また多数の遺物や祭祀遺跡(建石など)が発見されており、既にその頃より当神社の芽ばえがあったことがわかる。社名の「高田」タカタは高台にある水田を意味し、現在地の西方五十米余りの湿田には、古墳時代祭祀に使用されたとみられる土器が数多く出土していることから、その頃には神饌田もあり、神社としての形態が整っていたものと考えられる。また当神社を中心に環状に配されている二十一基の古墳は、御祭神との関係を示すこの土地の氏族の墳墓と考えられることから、当神社はこの氏族の氏神であり、日本書紀や三代実録新撰姓代録等に見られる、敏達天皇六年(五七七)飛騨にも「日奉部」(ヒマツリベ)が置かれその伴造(トモノミヤツコ)が、萬物の繁栄の祈願をこめて、始祖神の「高魂命」をこの土地に祀られたと考えるのが自然である。
更に当神社の隣にある寿楽寺附近で白鳳期の古瓦が出土し、近くに釜谷古窯跡もあることから、古い寺院の存在が判明して、それは当神社の神宮寺的存在であったことが推定され、萬物すべての生成発展をつかさどる高魂命を祀る当神社は、当時広くこのあたり一帯の篤い信仰を集めていたと考えられる。当神社の御神威の発揚について正史に見られるところでは、文徳天皇実録によれば仁寿元年(八五一)正六位上に、三代実録には清和天皇貞観九年(八六七)従五位上を授けられ、更に醍醐天皇延長五年(九二七)につくられた延喜式には、二月の祈年祭に官祭の班幣を戴く飛騨国式内八社の一つに列し、国幣の小社とされている。中世になり御醍醐天皇の建武の中興の御偉業に功績のあった飛騨国司姉小路家綱卿は当神社を崇敬し、境内には「十楽観」(館)を設けられた。それは平安京にならい野中に賀茂神を祀り小島城を築いて、その山々を東山、北の峰を北野嵯峨山、城下の細江川を賀茂川と名づけられた地名がいくつか現存していることから、飛騨国統治の中枢にされたことを物語っている。またその館跡が現存する今日においても、例祭の御神幸には当時の偉容を伝える武者姿が警護に当り、火縄銃を発射して供奉しているが、古書には神職が国司の姿をして佩剣したとある。近世になり白山信仰の勢力が飛騨にも伸びて、当神社は白山社と改称され、元禄検地帳には白山権現宮の名が見える。しかし江戸時代文化年間当時の神道の中心的存在であった京都吉田家の役人の調査により高田神社であることが確認され、社号碑を建てて旧に復することになった。その後明治三年九月、高山県は正式に式内社高田神社と称号する事を認め、明治五年には郷社に列せられた。そして昭和五十一年には岐阜県神社庁長参向の金幣社の指定を受けている。当神社には国司姉小路家一族の刀剣や甲冑など武具の宝物も多数伝わり、随神と小島城主時光公所有とされる冬瓜蓑朱兜は古川町指定文化財であり、御神木五程杉は天然記念物に、神楽獅子舞は県無形民族文化財に指定されている。特にその舞中の采振りは独特のものとして評価され、神前のみで舞われることになっている。