明建神社

郡上市大和町牧817-1(平成20年11月22日)

東経136度55分35.37秒、北緯35度48分28.74秒に鎮座。

 この神社は「古今伝授の里フィールドミュージアム」に隣接して鎮座しています。駐車場から境内入口まで桜並木や樹齢300年以上の大杉が聳えるとても素晴らしい参道は、総延長250mもあり「飛騨・美濃さくら33選」「ぎふ・水と緑環境百選」に選定された桜の名所で、桜並木を含む社叢は県天然記念物に指定され、春になると美しい桜のトンネルが見られそうです。又、境内入口参道脇には樹齢700年と推定される「神迎え杉 」、境内入口左側には樹齢500年の「獅子の寝床杉」が聳え、この社の由緒を感じさせています。
 「神迎え杉」の根元には「篠脇城跡」碑が建っていますが、篠脇城は、鎌倉末期、東氏4代氏村のときに阿千葉城(剣)より移り、天文9年(1540)越前朝倉勢の来襲を受けて戦火に遭ったため翌年11代常慶が八幡町赤谷山に移るまで、8代約230年間にわたる東氏の本拠地だったお城です。
 又、境内入口左に「東常緑飯尾宗祇連歌」碑が建っていますが、東氏は古今伝授の家で、文明3年(1471)東常縁が連歌師飯尾宗祇に古今伝授の講義を行なったおり、この社の社頭で連歌を読み交わした記念碑です。
 神社入口には素木の両部鳥居が建ち、県天然記念物に指定されている社叢の中を通る参道正面には、向拝のない大きな拝殿が建ち、その後ろ、神門と透かし塀内に享保7年(1722)再建の本殿が建立されています。
 社殿左には宝物殿、能楽堂?が建ち、右側には文化財の案内板が建っています。さて、この社も七代天神社同様、大和町島の八幡神社でお会いした方が「この近くでは七代天神社と牧の明建神社に、古くて変わった狛犬が居るから是非行きなさい。」と情報をくださったので、喜び勇んで狛犬さんに会いに来たのですが、ここの狛犬も文化財に指定されたため宝物庫の中に保護されてしまったようで、現在は非公開のようです、残念!!

 御祭神:国常立尊(妙見菩薩)
 祭礼日:例祭(七日祭り)・8月7日
 由緒:承久3年(1221)、承久の乱の戦功により、東胤行(東氏)は美濃国山田荘(現・郡上市)を新たに所領する。胤行は山田荘阿千葉(現・郡上市大和町剣)を本拠地にしたさい、千葉氏の氏神である妙見菩薩を勧請し、妙見宮としてを築いたのが始まりという。
 鎌倉時代末期(1310頃)、東氏村により篠脇城が築城されると、妙見宮は現在地に移転する(一説には参道は篠脇城の馬場跡という)。東氏は古今伝授の家であり、妙見宮で古今伝授の講義が行なわれることもあったという。文明3年(1471)、東常縁が連歌師飯尾宗祇に古今伝授の講義を行なったという記録がある。
 天文10年(1541)、東氏が本拠地を篠脇城から赤谷山城へ移転し、篠脇城は廃城とされたが、妙見宮は移転されなかった。その後、この地を治める歴代領主により保護されたという。
 明治時代初期の神仏分離令により明建神社に改称し、祭神を国常立尊にする。しかし祭神の変更は表向きのことであり、現在も神体は妙見菩薩である。明治6年(1873年)郷社となる。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

東胤行(東氏)は、千葉介常胤(つねたね)の六男。千葉介常胤の六人の息子達が、千葉六党(ちばりくとう)と云われ、全国に散らばって行き、千葉一族の祖(千葉氏、相馬氏、武石氏、大須賀氏、国分氏、東氏)となっていった。六男、胤頼(たねより)が東氏。東胤行は承久の乱(1221)の勲功により美濃国郡上郡山田荘の地頭職に補任され、この地を本領として移り住んだと云われています。

思わず拍手をしたくなるほど開き直った言い草です。御祭神の書き換えを強要した明治政府への怒りが感じられます。

約250mも続く参道
120本余りの山桜の桜並木があり、樹齢300年以上の杉も見えています。
境内入口前に建つ「篠脇城跡」碑
境内入口参道脇に聳える
「神迎え杉 」
境内入口左側に聳える
「獅子の寝床杉」
「東常緑飯尾宗祇連歌」碑
境内入口
社号標「郷社明建神社」 境内入口に建つ素木の両部鳥居
入口を護る昭和17年生まれの岡崎現代型狛犬
(昭和17年(1942)8月建立)
参道の様子 手水舎
向拝のない大きな拝殿
拝殿に架かる社額 拝殿内の様子
本殿前、神門と透かし塀 享保7年(1722)再建の本殿正面
宝物殿と文化財の案内
「大和町指定重要文化財・石造狛犬」の写真はこちらで
能楽堂?
境内の様子 境内から入口を振り返る