星宮神社

郡上市美並町高砂1252(平成20年11月23日)

東経136度54分54.77秒、北緯35度39分55.91秒に鎮座。

この神社は、高賀六社の一社で、名古屋の北50km程の辺り、長良川鉄道・赤池駅の西4km程の辺りに鎮座しております。神社ですが、御本尊を虚空蔵菩薩とする、神仏習合の信仰形態を今も守っている貴重な神社です。多くの星宮神社が御祭神を天御中主とする神社とされ、仏像や経巻は焼かれ、仏教色を除かれたところが殆どです。ここ高賀地区では廃仏毀釈の嵐は吹かなかったのでしょうか。隣に元別当寺の粥川寺が移築保存されており、大般若経や多くの懸仏が残るこの地で、古くから伝わる虚空蔵菩薩信仰を何時までも守り伝えて欲しいと思います。

由緒
天暦のはじめ(947年頃)西の岳に妖鬼が住み、人々を悩ましたので都の帝に申し上げると、藤原高光を妖鬼退治に遣わされた。高光は大岳に登りこれを退治して都に帰った。しかし妖鬼の亡魂が山頂に留り、人々を苦しめたので重ねて都へ申し上げると、再び高光を遣わされた。しかし妖鬼の亡魂はあちこちを飛びまわるので退治することができない。高光は虚空蔵菩薩に亡魂退治を祈るとお告げがあり、南の岳でおそいかかる大鳥を蕪矢で射落とすことができた。
 高光は大鳥の首を雁俣の矢でかき切り、死がいを焼いたのでその場所を骨原というようになった。
 山を福部岳と名付け、虚空蔵菩薩をおまつりした星宮神社に弓を納め、矢を滝に納めたので矢納め滝といい、渕を矢納が渕というようになった。
山岳信仰と修験道
1.古代の人は祖霊のこもる山としてダケ(瓢が岳)に対する信仰があり後に山の神に対する信仰となった。平安時代のはじめ粥川のオヅガ洞には役行者をまつった雄角明神があった。また、星宮神社には天暦七年(953)の奥書がある大般若経やその残簡が多く残されている。こうしたことから平安時代のはじめ頃星宮神社を中心に原始修験道があったことがわかる。
2.原始修験道では、金、銀、水銀、水晶等は薬物であり、これを服用すると永遠の生命が得られるとされた。従ってこうした鉱物が採取される場所を神聖視し、みだりに人の出入りを禁じた。瓢が岳周辺には廃坑が多くこれを裏付けている。そして鉱物を掘り出す人々(オニ)即ち鉱山師、修験者などは、その守り神として蔵王権現、虚空蔵菩薩をまつったのである。
虚空蔵信仰と修験の里・粥川
虚空蔵菩薩は、幸福や知恵を授け、人々の願いをかなえてくれる菩薩である。この信仰は白山を開いた泰澄大師が虚空蔵菩薩求聞持法を修したことによるもので、石微白(いとしろ)・中居(ちゅうきょ)神社の信仰が広がり、平安時代末期虚空蔵菩薩を本地仏としてまつるようになった。そして虚空蔵菩薩を明星天子としてまつることから星宮と称するようになり、その別当寺が粥川寺であった。その最盛期は鎌倉時代で、多くの懸仏が奉納され、浄財による仏像の造顕、大般若経の写経が盛んに行われた。
 こうした信仰を支えるものが修験集団の活動であり酷しい修行の中心地が瓢ヶ岳、大谷川(粥川)や粥川寺であった。
 信仰が盛んになるにつれ、その周辺もその働きを支える仕組みとなっていった。谷戸、半僧、平僧、入道、金剛堂、坊切などの地名に残り、鰻の禁忌が今なお固く守られていることなど粥川郷全体が修験の里であったことを示すものである。
星宮神社・粥川寺
 鎌倉時代から南北朝時代、高賀修験集団の中心地としてその最盛期を迎えた。一山の中心に本殿、拝殿、護摩堂、三重塔、宝蔵、鐘楼等があり、これに奉仕する不動院、大日院等十二院があり、輪番で本坊を勤めた。
 社領は粥川村、高原村等九箇村に及んでいた。粥川寺は真言宗無本寺である。江戸時代には、供僧山伏が四十人住む寺で粥川社ともいった。星宮神社は昭和五十七年金幣社となり、粥川寺は昭和五十九年伝承館横に移築された。
天然記念物「粥川の鰻」と「左鎌奉納」
 藤原高光が妖鬼退治のため山に分け入り道に迷った時、鰻の道案内で山頂に着く事ができた。高光は鰻を矢納が渕に放ち、神のお使いだから大切にするよう命じた。以来今日までこれを守り続け、大正十三年国の天然記念物に指定された。「左鎌奉納」虚空蔵菩薩に祈願をかけたり、そのお礼のために古くから左鎌が奉納されている。鎌の柄に願い事、住所、氏名、年令を書くが、病気平癒特にぜん息が多く、県内外から多数の人が奉納している。
境内由緒書より。全文はこちら。

神社遠景

神社入り口と社号標

境内

参道の狛犬。隣の滋賀県で見かける顔でしょうか。

(昭和2年(1927)1月建立)

平成13年造営の拝殿と、拝殿正面に張ってある虚空蔵菩薩の真言。合掌し真言を唱えれば、神前と言うより仏前といった気分に浸れます。ここでは祝詞は唱えないのでしょうか。

拝殿内部。扁額に「本尊 虚空蔵菩薩」と書かれています。

本殿の門

木鼻の狛犬

本殿

円空が寛文3年に得度し、此処を本寺として全国に遊行した粥川寺の跡地に建つ「美並ふるさと館」。左手の部分が嘗ての粥川寺のようです。由緒書には移築とあるが、ふるさと館とは中でつながっており、恐らく再建と思われます。美並ふるさと館はこちら。

不動堂

宝蔵殿

名木お魂スギと粥川の流れ

途中の高光橋の欄干にいる藤原高光(多分)。流石円空のふるさとです。妖怪さるとらへびを退治した古今無双の豪傑、藤原高光もなにやら円空仏風であります。

鰻の天国かも知れません。決して生きながら裂かれ、蒲焼にされることはなさそうです。浜名湖の鰻に是非教えてあげたい。

ここ以外でも星宮神社の氏子は鰻を食べないと言う所がある。
茨城県龍ケ崎市・星宮神社
栃木県下都賀郡野木町潤島・星宮神社
栃木県下都賀郡野木町丸林・星宮神社

ここでは藤原高光の道案内をしたから、と言われているが、虚空蔵菩薩を本尊とするお寺でも鰻を食べないようです。鰻は虚空蔵菩薩のお使いとか。

虚空蔵菩薩を信仰した、古今亭志ん朝師匠も鰻を断って芸に精進されたそうです。

由緒書の「左鎌奉納」用の絵馬。鎌は描かれているのではなく、鉄で作られた鎌(刃は無い)が釘で打ちつけられています。
左鎌の奉納が行なわれている。これは双生児の場合は一方が左遣いとされており、双生児の大碓命と小碓命のうち大碓命が左遣いであったことに由来する(大碓命は美濃国を開拓したと伝えられている)。所願の成就を祈る時に左鎌を奉納していた。かつては鎌を板壁に突き刺していたが、現在は左鎌が描かれた絵馬になっている。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

ふるさと館・館長さんは「左利きの虚空蔵菩薩さんだから」とおっしゃておりますが、どうも虚空蔵菩薩信仰以前の習慣を伝えているようです。