鳥追観音

那麻郡西会津町野沢字如法寺乙3527番地(平成16年7月18日)

福島県指定重要文化財
如法寺観音堂(附)仁王門
昭和59年3月23日指定
所有者 如法寺
形状  桁行五間
    入母屋造、鉄板被覆屋根(もと茅葺)
    仁王門は三間一戸、単層入母屋造
 広い寺域の本堂南方に建つ仏堂で、東側参道入口には仁王門を配しています。観音堂は畳敷きの内陣に須弥壇を置き、聖観音を安置した厨子が収められています。正面(東)と西面にそれぞれ唐破風の後背をつけ、南面には唐破風を飾って三方出入口とするなど、庶民浄土信仰の強い影響を受けた特異な構造の建物です。
 三手先の深い軒組をはじめ、各部とも禅宗様の入念なつくりで、後拝軒回りや蟇股などには天地陰陽、動物、花鳥などの華麗な彫刻がなされ、内部の天井にも絵画が描かれるなど装飾性に富んだ近世初期の典型的な仏堂といえます。
 この建物の主要部は17世紀初頭の手法によるものと考えられ、「会津旧事雑考」などにも、慶長16年(1611)の」大地震で倒壊し、同18年(1613)再建したという記録があります。
 また、堂内には、木造聖観音立像ほか三体の福島県指定重要文化財(昭和34年3月17日指定)が安置されています。
福島県教育委員会

奈良時代、天平八年(七三六年)、行基菩薩が会津巡錫の折、貧しい農家に宿をとられました。行基菩薩は、子に恵まれず、鳥獣害による不作の貧苦で悲嘆にくれる農夫を憐れみ、念持仏である一寸八分の聖観音の御尊像をお授けになられました。観音様の霊験は著しく、自ら鳴子の網をお引きになり、鳥や獣を追わせられたところ、その一家は豊作に恵まれ、子宝を授かり、皆幸福な人生を全うしたと伝えられています。やがて西方極楽浄土に安楽往生が叶ったことが広まり、人々は[鳥追観音]または[ころり観音]と呼び、多くの老若男女の信仰を集めるようになりました。  時代は移り、大同二年(八〇七年)、徳一大師は、坂上田村麻呂公の帰依を受けて、金剛山如宝寺を創建し、御本尊に行基御作と伝えられる聖観音像を奉安、胎内仏に[鳥追観音]を入仏秘されました。御堂は、慶長十八年に再建されたものです。その構造は東西向拝口という珍しいもので、東口から入り、参拝したら戻らずに西口から出るようになっています。これは観音様の尊きで人生を全うし、やがて西方浄土へ安楽往生が叶うという御誓願を表しています。堂内の「だきつき柱」に祈念を込め、「身代りなで仏」をなで、肌守りを念持すれば、心願成就すると信仰されています。開創以来千二百年、[鳥追観音]は会津西方浄土の霊場、会津三十三観音番外二世安楽の結願所、会津ころり三観音霊場のひとつとして、その広大無辺な慈悲を今に伝えています。
と鳥追観音の由来を説明しているのだが、ご利益が実に具体的だ。仏陀の教えは悟りを開くのか、と思っていたが、観音様は労働を代わってくれるらしい。俺の代わりに仕事をしてくれる観音様はいないのだろうか。

重文指定も納得!

千社札を張っているおじさんがいました。現場を見るのは始めてなので、お話を聞きました。ご当人に代わって、毎日参拝した事になるようです。数人のグループであちこちと張って、廻っているご様子です。しかし専用の伸び縮する張り竿があるとは知りませんでした。