都々古別(つつこわけ)神社

東白川郡棚倉町八槻大宮224 (平成30年10月21日)

東経140度23分43.50秒、北緯36度59分29.29秒に鎮座。

この神社は、JR水郡線・近津駅の南700m程の辺り、八槻大宮の街中に鎮座しております。

御祭神 味耜高彦根命・日本武尊

創建
社記(慶長2年(1597年)の陸奥国一宮近津大明神縁起)によると、第12代景行天皇の時に皇子の日本武尊が奥羽に至り八溝山の東夷を討った際、日本武尊を守護した3神が建鉾山(福島県白河市表郷三森)に隠れたので、尊は東方に箭を放ち箭の着いた地(箭津幾:やつき)に神社を創建したという。そして源義家が奥州征伐に訪れた際に「千勝(近津)大明神」と改称したと伝える。
地名の「八槻」の語源伝承は『陸奥国風土記』逸文(大善院旧記所引)にも見え、日本武尊が東夷征伐の際に放った八目鳴鏑(鏑矢)が落ちた地が「矢着」と称されたが神亀3年(726年)に「八槻」に改めたとし、別伝として日本武尊が放ち8人の土蜘蛛(在地首長)を貫いた8本の矢がいずれも槻の木になったので「八槻」になったともいう。これらは、陸奥勢力のヤマト勢力への服属を日本武尊の東征に仮託して説明したものとされる。
なお、前述のように弘仁2年(811年)頃の陸奥・常陸間の新道設定に伴う創建と推測する説もある。

概史
『続日本後紀』承和8年(841年)条の「都々古和気神」、ならびに延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳の名神大社「都都古和気神社」の論社とされる。
中世からは山岳信仰が入って修験化し、別当の八槻家が管掌した。別当寺は大善院。この八槻は高野郡南郷一帯を掌握し、同じく北郷を掌握した馬場都々古別神社別当の高松家と並立したとされる。
近世には領主からの崇敬を受けて社領寄進・社殿造営があり、慶長9年(1604年)の文書によると神領高は200石あった。
明治維新後、近代社格制度では当初郷社に列したが、明治18年(1885年)4月に国幣中社に昇格した。明治期の神仏分離に際して境内の仏教系堂宇は廃されたが、別当の八槻家は継続して神職を担っている。戦後は神社本庁の別表神社に列している。
ウィキペディア より。

参道入口

神門

神門前の狛犬。拡大写真はこちら。

(天保11年(1840)庚子11月吉日建立)

神門内の狛犬。拡大写真はこちら。

(年代不明)

拝殿

石祠


末社