都都古和氣(つつこわけ)神社

東白川郡棚倉町棚倉馬場39 (平成30年10月21日)

東経140度22分45.29秒、北緯37度01分44.33秒に鎮座。

この神社は、JR水郡線・磐城棚倉駅の西900m程の辺り、棚倉馬場の街外れに鎮座しております。

御祭神 味耜高彦根命・日本武尊

創建
社記(文禄3年(1549年)の社蔵縁起)によると、第12代景行天皇の時に皇子の日本武尊が奥羽に至り、都々古山(福島県白河市表郷三森の建鉾山)に鉾を立てて味耜高彦根命を地主神として祀ったのが創祀とする。その後、大同2年(807年)に坂上田村麻呂が現在の棚倉城跡(位置)の地に社殿を造営し、日本武尊を相殿に配祀した。そして現在地に遷座したのは寛永2年(1625年)になるという。
創祀地とされる建鉾山は5世紀代の東北有数の祭祀遺跡として知られる。一方、前述のように弘仁2年(811年)頃の陸奥・常陸間の新道設定に伴う創建と推測する説もある
概史
『続日本後紀』承和8年(841年)条の「都々古和気神」、ならびに延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳の名神大社「都都古和気神社」の論社とされる。
中世からは山岳信仰が入って修験化し、別当の高松家が管掌した。別当寺は不動院。高松家の系譜によれば、建武年間(1334年-1338年)からこの高松家が高野郡北郷一帯の宗教・政治・軍事面を掌握し、同じく南郷を掌握した八槻都々古別神社別当の八槻家と並立したとされる。
近世には代々の領主から社領寄進・社殿造営を受けた。寛永2年(1625年)には、棚倉藩主の丹羽長重が棚倉城を築城するに際して棚倉城跡から現在地に移築・遷座されている。この際に別当高松家は還俗して藩家老となった。社領は近世初期で363石であったが、慶長8年(1603年)に150石となった。
明治維新後、明治6年(1873年)に近代社格制度において国幣中社に列した。明治8年(1875年)から3年間は、会津藩家老を務めた西郷頼母(保科近悳)が馬場都々古別神社宮司を務めたことが知られる。戦後は神社本庁の別表神社に列している。
ウィキペディア より。

参道入口

神額

境内入口

拝殿

本殿


甲山天満宮

末社