霊山神社

伊達市霊山町大石落合 (平成16年5月28日)

東経140度38分59.6秒、北緯37度47分45.4秒に鎮座。

この神社は、建武中興十五社の一社で、明治14年に南朝の忠臣、北畠親房とその一族を祀るために創建された神社です。太平記で知られる南北朝時代に、北畠顕家は多賀城から霊山に国府を移し、東奥鎮撫の拠城としたが、北朝の足利軍の包囲を受け、落城したと伝えられている。

御祭神:北畠親房・北畠顯家・北畠顯信・北畠守親
御由緒
 御祭神・北畠御一門は、和漢の学問に励み、その業績を以て朝廷に仕えた村上源氏の名門公卿であるが、武家の覇権争いに政治・世上乱れて甚だしい南北争乱の御代、後醍醐天皇の行われた「建武の中興」に際しては、皇室を戴く日本の麗しい国体と歴史を明らかにし、又、武将としても天下国家の安泰、国民幸福の増進の為に多大な御功績を示された。
 我国近代化の夜明けといわれる明治維新は「建武の中興」の理想が根本理念であるとして、御一新の御徳を仰ぎ宣揚するために神社御創建の機運が官民双方に醸成され、明治の元勲・岩倉具視をはじめ全国有志の熱誠を明治天皇の勅許されるところとなり陸奥国府の置かれていた霊山のこの地が神地として占定され霊山神社の御創建となった。
境内由緒書より。原文はこちら。

山岳仏教の聖なる山 
 貞観元年(859)清和天皇の勅命を受け、比叡山延暦寺の座主、円仁(慈覚大師)が開山したと伝えられています。それまで不忘山と呼ばれていたこの山を、お釈迦様が修行したインドの霊鷲山になぞらえて、霊山(りょうぜん)と命名いたしました。霊山は、そのまま町名にもなっています。
平泉とならぶ仏教文化の拠点
 山頂に霊山寺を建立し、山王21社を観請し、峰峰には大規模な寺院のメッカをつくるあげ、ふもとには3600にもおよぶ僧坊があったといいます。奥州の山岳仏教の拠点として隆盛を極め、平泉の北奥文化に対し、南奥文化中心地として文化の発信基地であったともいえます。
南北朝時代、建武の中興で陸奥の国司となった北畠顕家は、多賀城の国府に入っていたが、北朝軍の勢力が強くなり建武四年/延元ニ年(1337)正月、攻防に有利な山城の霊山に、義良親王を奉じて移り、国府を開いた。
 しかし、後醍醐天皇より足利尊氏討伐の勅命を受け、同年8月諸将を従え霊山を進発したが、暦応元年/延元三年(1338)5月22日、和泉石津合戦において敗死した。
 顕家の死後、鎮守府将軍・陸奥介に任じられた弟の顕信が下向した。顕信の子の守親は顕信のあと陸奥国司となり、親子で連携しつつ奥州で連戦した。
 明治12年、神社創建を政府に請願、官許を得て直ちに造営に着手した。明治14年5月11日、本殿以下、各社殿竣成し、霊山神社の創建となった。明治18年、特旨をもって別格官弊社に列せられた。第二次大戦後の神道指令にともない社格が廃止され、今日に及んでいる。
(資料:霊山町観光のご案内(霊山町役場・霊山町観光協会)、霊山神社由緒書)

神社入り口

神門

境内

拝殿

本殿