正八幡神社

行橋市行事7-17-1(平成22年4月3日)

東経130度58分12.58秒、北緯33度43分51.68秒に鎮座。

 この神社はJR日豊線行橋駅から北北西に600m、長峡川の北、行事地区の日豊線の線路西に鎮座しています。
 神社入口には神橋が架かり、すぐ後ろに昭和3年生まれの玉乗り狛犬がいます。社号標と二基の鳥居はその後ろ。参道を行くと二基の猿田彦大神碑があり、明治24年生まれの狛犬が愛嬌を振りまきながら迎えてくれます。狛犬と挨拶を交わし、尚も進むと神池に二の神橋が架かり、神池右には境内社:厳島神社も祀られています。
 尚も参道を進むと、境内の少し手前に昭和3年生まれの狛犬。入口の狛犬と同年代です。すぐ左には手水舎、右側の小山の上には境内社:菅原神社が祀られています。
 境内は広々と明るく、正面に入母屋造り唐破風付きの大きな拝殿が建ち、左右に繋がった形で火祖神社、水神社が祀られています。拝殿・幣殿と繋がった本殿は大きな流造りの社殿です。
 参道・境内は綺麗に整備され、旧郷社の風格が漂う落ち着いた清々しい神社でした。

 御祭神:誉田別命・気長足姫命・比淘蜷_
 祭礼日:2月3日・節分祭、建国祭・2 月11日、祈年祭・5月2日、神幸祭・5月3日〜5日、8月1日・夏越祭、例祭・8月25日、 神嘗祭・10月17日
 境内社:厳島神社、菅原神社、火祖神社、水神社
 由緒:貞観元年(859)宇佐八幡神を石清水八幡宮へ勧請するに際して、仮殿を構えて駐輦した跡に、榊が1本残存していたため、これを八幡大神の神慮であるとして「宇佐八幡大神」と唱えて創建したと伝わる。
 明治6年(1873年)に郷社に列した。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

 その昔、当正ノ宮正八幡神社は、行事村・草野村・長音寺村・大橋村・宮市村・小部埜村六ヶ村の土地の霊魂を、この地に一ヶ所に集めて地底に封じ込めて小さな祠を造営し、「産土正宮」として六村の地域住民に崇められていました。
 ところが貞観元年(859)のこと、宇佐八幡宮を京都の男山に勧請の際に、その御神輿の御旅所としてこの地に仮殿を構えて安置申し上げることがありました。そして翌朝御神輿が出発なされた後に、木綿垂を附けて献納したはずの榊が一本残されていたのを、人々はこれを大神御心にちがいないとして、その榊を大神の御璽として正宮の祠内に納めて宇佐八幡神を勧請申し上げました。
 以後は「八幡正宮」と称して産徒の信仰も厚く往時には光養寺・東光寺・神宮寺と呼ばれた神護寺もあって、華麗な社殿が並び建ち多くの社家、社僧が奉仕したと言われるが、応永年間大友氏鑑の兵火に焼亡して今はただその地名を残しているだけであります。
 寛永10年(1633)の夏の大祓祭の折「いんしゅ撃ち(宮市河原を挟んで石つぶてを投げ合う行事、あるいは青竹で叩き合う行事ともいわれる)」の神事が昂じて多くの怪我人が出るに及び、永い争論の末三村が離脱して現在のように行事・草野・長音寺三村の産土神として尊崇されてきました。
(「平成祭データ」より)

社頭
神社入口の一の神橋
神社入口にいる昭和3年生まれの玉乗り狛犬
広島型ですが、顔や尾が異なる造りなので、ご当地の石工さんの作と思われます。
狛犬の拡大写真はこちらで
(昭和3年(1928)11月建立)
社号標と一の鳥居
二の鳥居
参道の様子
参道途中にいる明治24年生まれの狛犬
前脚が細く長く、にこやかで、体表が滑らかな狛犬です。
狛犬の拡大写真はこちらで
(石工・宝山 明治24年(1891)辛卯1月吉日建立)
参道途中、神池に架かる二の神橋
神池 神池に祀られる境内社:厳島神社
参道・境内の様子
境内の少し手前にいる昭和3年生まれの狛犬
双方構えで、阿は小さな玉を持っています。装飾的に優れた狛犬です。
狛犬の拡大写真はこちらで
(昭和3年(1928)11月建立)
手水舎 参道右側、小山の上に祀られた境内社:菅原神社
入母屋造り唐破風付きの大きな拝殿
本殿
拝殿左に祀られる境内社:火祖神社
拝殿右に祀られる境内社:水神社
猿田彦大神碑二基
絵馬

行橋と森鴎外「小倉日記」はこちらで