高倉神社

遠賀郡岡垣町高倉 (平成22年4月2日)

東経130度36分11.08秒、北緯33度50分36.66秒に鎮座。

この神社は、岡垣町役場の南西1.2km程の辺り、高倉の旧集落の外れに鎮座しております。

高倉神社御由緒
御祭神 天照皇大神・大倉主命・莵夫羅媛命
当社は國史所載の古社にして第十四代仲哀天皇八年正月己卯朔壬午筑紫に行幸し給ひし時、岡の縣主の祖熊野周防婆歴浦(さばのうら)に参迎え海路を導き山鹿岬より巡りて岡の浦に入らむとし給ふ。時に神異あり、天皇勅して挟抄者(かぢとり)倭國莵田の人伊賀彦命を祝部としめ給ふ。神功皇后摂政二年五月午の日に此の地に神祠を建て神田千町を以って定めらる。即ち大倉主命・莵夫羅媛(つぶらひめ)二神の本宮なり。古来武人の崇敬厚く年中三度の大祭には在廳の官人をして祭儀を監察せしめられ武家執政の後も検使を遣して祭儀を援けしめられき。天文五年九州探題大内義隆公社殿の造営ありしも永禄二年大友宗麟の兵火にかかり壮麗なりし社殿も、貴重なる社宝と共に烏有に帰せしが天正十五年國主小早川隆景公之を再建、慶長十八年黒田長政公梵鐘及び鳥居の献納あり。爾来歴代の國主神田神山を寄進して崇信の念殊に厚く宝暦元年旧遠賀郡の惣社として定めらる。明治五年十一月郷社に列せられ、大正九年縣社に昇格す。現今の神殿幣殿は明治九年旧遠賀郡の造営によるものにして古は神傳院・千光院・総智院・勝業院・正覚院の六坊あり。又社家五家、巫女四家ありしも明治初年同時に廃せらる。境内には御神木として杉、楠、松、楓、柳の五樹ありしが今は神功皇后御親裁と傳へられる綾杉と楠のみ残せり。

高倉神社の由来
高倉区の南山麓にあって神殿は西を向き、芦屋町岡湊神社の本社で、以前は遠賀郡二十二村の総社であった。明治五年郷社と定められ、大正九年九月二十八日県社に昇格、昭和二十年官幣社に昇格される予定であったが、終戦のためなされなかった。
祭神は大倉主命・莵夫羅媛命の二神で、中世天照大神を合祀し、左殿に氏森大神、秋葉大神、室大神、高田大神。右殿に白山大神、中山大神、山崎大神、国常立大神を合祀する。祭日は十月九日、社記は「日本書紀」を引用して「仲哀天皇が筑紫に行幸されたとき、岡の県主熊鰐はそれを聞いて、百枝の榊をとり、今の百合野で九尋の船のへさきに立て、上の枝に白銅で造った鏡を掛け、中枝は十握の剣をかけ、下枝に八尺瓊の勾玉をかけて、周防の沙歴の浦にお出迎えし、魚や塩、地図を奉献する。(これは八尺瓊の勾玉の美妙なように天下を治め、白銅鏡の明晰な如く山川海原をみそなわし、十握剣をひっさげ、天下の賊を平定くださいとの意で、神代の天照大神の故実に始まり、赤心を顕し、至誠を表現し、当時諸臣が天皇を奉迎する礼儀であった)熊鰐は海路を導いたが、山鹿岬より御船が進まなくなった。天皇は「熊鰐よ、お前は忠誠心があって出迎えに来たのだろう。それなのに船が進まないのは何故か、策略があってとめたのだろう」と吃問されると、熊鰐は「御船が進まないのは、私の罪ではありません。この浦の先に男女二柱の神がおられ、男神を大倉主命、女神を莵夫羅媛命といいますが、その神に挨拶をしないからです」と奏上した。そこで天皇は、大和の国の伊賀彦を祝部となし、祭とし祈願をされたら、御船は進むことが出来た」と。仲哀天皇は神功皇后と岡津に暫く駐まり、作戦を練られ、諸軍に命じて兵器弓矢を整備される、そこを矢矧という。熊鰐は皇后に奏上して「この県に高津峯という三面宝珠の山があります。この峯に国々を鎮護するため神々が天降っておられます。いそいであの峯に登られ、朝敵誅伐のことをお祈りください」と。皇后は悦んで高津峯に登られ、熊襲征伐のことを祈られる。間もなく岡津に帰られ、天皇と相談される。「ここは国の端で、暫くでも皇后をおく所ではありません。香椎の宮に移ってください」と。軍勢はお立ちになる。今度この九州に下られたのは熊襲征伐のためだから、敵国はまだ遠いとはいえ、隊伍を整え号令を厳格にされる。そして先ず御旗を立てられた所を旗の浦といったが、今は訛って波津の浦といい、■を残された所を小手の村といったのを、後世小の字をとり手の村という。こうして程なく香椎に入られたが天皇は宿陣されたとき海からの風が烈しかったので千本の松を植えられた。それを垣崎松原(三里松原)という。香椎で天皇は崩御されたので、皇后が代わって熊襲を伐ち平げ、朝鮮の新羅も伐ち従え、その年の十二月に御帰還される。
この西征で、天皇、皇后は各所で祈願をされたので、御帰還後それぞれお礼をいい祭りをされた。中でも大倉主、莵夫羅媛の二神は水神で、仲哀天皇が筑紫に下られた時も神異があり、皇后が三韓を伐たれたときも神助が浅くなかったので、皇后が摂政の二年五月、午の日に勅を下して、この高倉村に御柱を建てて祭りをされる。これが高倉神社である。だから今に至るまで午の日を祭日にしている。(岡垣風土記)

境内由緒書より。原文はこちら。

由緒書では大倉主命・莵夫羅媛命二柱の神は海のすぐ側におられるように書かれていますが、海からは4km程離れており、沖行く船が挨拶するには、やや遠い気がします。昔はもっと海が近かったのでしょうか。

神社入口と一の鳥居

参道

参道途中の狛犬。拡大写真はこちら。

(年代不明)

境内。参道は左手となります。

社殿正面

狛犬と神門

参道の狛犬。拡大写真はこちら。

(弘化4年(1847)丁未3月建立)

神門

拝殿

拝殿内部

本殿前の神殿狛犬

本殿


左、神武天皇社・住吉神社・大国主神社。右、山崎神社・秋葉神社・室神社。

左、白山神社・仲哀天皇社・天満神社。右、氏森神社・支々木神社・高田神社

大山祇神社(大山祇命・五十姫命)・陰御前社(伊弉冉命)・陽御前社(伊弉諾)

一体だけの狐さん

伊賀彦社。祝部となった大和の国の伊賀彦を祀った社のようです。

厳嶋神社と楠

不明の末社

高倉神社の綾杉
神功皇后、三韓征伐の時、自ら植えられたと云われ、苗木を逆さまに植えられたので「逆杉」とも呼ばれているようです。樹高10.7m 周囲5.7m 推定樹齢700年。

毘沙門天像。
延徳三年(1491)大江貞盛の鋳造にかかるもので芦屋鋳造関係の貴重な史料だそうです。