大中臣神社

小郡市福童555(平成23年8月5日)

東経130度32分54.44秒、北緯33度22分31.37秒に鎮座。

 この神社は端間駅の西約400m、14号線に面して鎮座しています。
 道路からは緑豊かな社地が見え、灯籠の立つ入口を入ると参道奥に朱の欄干の神橋が見え、左右に神池が広がっています。神橋を渡りきると参道は南北朝時代に九州制圧の命を受けた南朝の征西将軍・懐良(かねなが)親王が献納したといわれる将軍藤脇を通り、そこには力強い筑後型の狛犬もいます。将軍藤を抜け注連柱を左右に見て進むと、前方に雄大で学術的にも極めて貴重な建造物である市指定文化財の楼門が建立されています。
 楼門をくぐり抜けると境内で、左右の木々の中央に「住吉大明神、大中臣大明神、春日大明神」と書かれた額が掛かる、千鳥破風・唐破風付きの豪華な拝殿と本殿が建立されています。
 駅からのメインストリートに面して鎮座しているにも拘わらず、一旦神社内に入ると不思議なほどに外音が聞こえず、静寂そのもの。綺麗に整備された落ち着いた佇まいに気分も平穏になり、清々しい気持ちで参拝を終えることができた神社でした。
 

 主祭神:天児屋根命、脇祭神:武甕槌命、経津主命、三筒男命
 祭礼日:1月1日・歳旦祭、3月11日・粥占祭、4月中旬・藤祭、7月1日・夏祈祷、7月11日・夏祭り、9月1日・八朔祈願祭、10月20日・東福童宮座、10月21日・東福童例祭、12月第1日曜日・西福童宮座、12月11日・西福童例祭
 由緒:社伝では、天平12年(740)藤原広嗣の創建とされ、平安時代の斎衡3年(856)作成の筑後国神明帳(高良下宮社神明帳)に、「西福童大中臣神」の神名が記載されており、今から千百年以上昔既に神社が存在したことを証するものです。
 嘉禄2年(1226)現在地に遷宮。
 寛文10年(1670)久留米藩社方開基によれば、社殿その他建造物として「楼門9尺2間茅葺にて御座候」とあるのをみれば、当時楼門も建立されていたことがわかる。
 ところが文政11年(1828)8月前代未聞の猛烈な台風が当地方を襲い、家屋・立木・田畑等に甚大な損害を被り、楼門も恐らく倒壊したであろうと思われる。そこで7年後の天保6年(1835)甘木の藤次郎を棟梁として工事に着手12月に上棟したと記録されている。
(「由緒のしおり」「境内案内」より抜粋)

社頭
神社入り口
参道の様子
神橋
神池
将軍藤脇の参道の様子

県指定天然記念物・将軍藤
南北朝時代(14世紀頃)、九州制圧の命を受けた南朝の征西将軍・懐良(かねなが)親王が献納したといわれ、藤棚は約500平方メートルに広がる。根元周囲3m、胸高周囲2mで、地上1.7mから幹が分岐し、高さ2mの棚の上に枝が広がり、例年4月中旬〜5月上旬が見ごろとなる。
狛犬と参道
将軍藤脇参道にいる文政7年生まれの狛犬
筑後型の狛犬の完成形の様に見えます。吽は角付きで厳めしく、筋肉質の身体に力がみなぎっています。鬣も尾も彫りが立体的で、厚い胸板から出ている前足を少しずらしています。
狛犬の拡大写真はこちらで
(文政7年(1824)甲申11月吉日建立)

市指定文化財・楼門
小郡市内34社中現存する楼門は、大板井の玉垂御子神社、三沢西島の竈門神社と当社のみで、しかも、他の2社のものに比べ規模の雄大さ、美観はもとより神社の景観、尊厳、荘厳維持の面からも、市内は勿論、河北地方においては随一の結構で、江戸時代後期の建築技術を知る上で、学術的にも極めて貴重な建造物です。三間一戸、入母屋造、桟瓦葺きの和様唐様の楼門で、天保年間に再建されたものですが、建立は古く、江戸時代前期と推定されています。平成4年度に解体修理を行いました。
境内側から楼門・回廊を振り返る
楼門内にいる狛犬
ガラスの反射で良く見えませんが、真っ黒な身体に真っ赤な口中と真っ白な歯だけが良く見える狛犬でした。(と言うわけで写真も酷い物しかありません。ご容赦を…。)
狛犬の拡大写真はこちらで
楼門天井絵
境内の様子
拝殿
拝殿に掛かる額「住吉大明神、大中臣大明神、春日大明神」
拝殿目貫彫刻・龍
木鼻・狛犬
本殿
櫂の木
宮改築記念碑 謎の石組・磐座?