月瀬八幡宮

中間市上底井野1696-1 (平成25年12月21日)

東経130度41分29.28秒、北緯33度48分39.92秒に鎮座。

この神社は、中間市役所の西1.6km程の辺り、住宅地の中の小高い杜の中に鎮座しております。室町時代の猫城跡で要害の地であったようですが、現代の感覚ではとても要害の地とは思えません。

祭神 品陀和氣命・此淘蜷_・息長足媛命

由緒
社伝に曰く、寛永十五年二月國主K田忠之の命あり豊前國宇佐神宮より鎭祭、明治五年十一月三日村社に定めらる。
社説に曰く、寛永十五年八月筑前藩主K田忠之底井野に別館を造營するに當たり、先づ守護~を斎き奉らむとして淺木~社大宮司佐野正安に命じ猫城跡(現在の社地)に社殿を造營し宇佐八幡宮を勸請鎭祭す、御社號を最初は猫城八幡宮と稱す。正保四年藩主は~鏡一面を寄進し、續いて藩主K田光之宝永元年十月本殿を改築し同二年六月拝殿を造營す。
寶暦二年藩主は御供料として米七俵永代寄進の制を定む。代々藩主の崇仰篤く社参に於て四十囘近く代參は五十囘に及べり、又庶民の崇敬も廣く郡内大庄屋より石玉垣、石灯籠、繪馬など寄進あり。文政三年より郡役所直接米一俵掃除夫一名を永代遣はす事となれり。
福岡県神社誌 より

猫城は、室町時代に麻生氏の端城として築かれたといわれ、その城跡には、現在月瀬八幡の社殿があります。城跡の丘陵は、高さ約20mの円錐状で、すそ野には水濠の名残りがみられます。山鹿城の麻生元重と宗像大宮司氏貞は、数度の合戦に及ぶも決着がつかず、天正6年(1578)、遠賀川の東は麻生領、西は宗像領となります。氏貞は、家臣吉田倫行に雑兵150余人をつけ、猫城に配属します。天正8年(1580)5月、豊後の大友氏(立花道雪の説もあり)の指令を受けて、鷹取城主毛利鎮実が攻め込みますが、宗像勢は激戦の末、これを打ち破っています。頂上からは、遥かに宗像、鞍手、遠賀が一望され、要塞の地であったことが想像されます。「猫城」の名の由来は、定かではありませんが、「猫が背を丸めた姿に見える」とか、「敵が攻めて来れば高くなり、城より攻め下るときは低くなり、まるで猫のようだ」との言い伝えがあります。
中間市教育委員会

参道入口。左手は恵比須宮。

一の鳥居

神額

二の鳥居。ここの神額は「天満宮」

三の鳥居。右手の牛も天満宮の鳥居と一緒に移って来たのでしょうか。

参道の石段。右手は稲荷神社。

四の鳥居

境内

狛犬と拝殿

逞しく堂々とした狛犬。拡大写真はこちら。
(天保3年(1832)壬辰正月吉日建立)

拝殿

拝殿内部。額は「月瀬八幡大神」と「天満宮」。

本殿


恵比須宮

稲荷神社

貴船神社
末社
遥拝所 石祠

御神木