鞍手郡鞍手町中山 (平成22年4月2日)
東経130度41分15.4秒、北緯33度46分20秒に鎮座。
この神社は、九州自動車道鞍手PAの西600m程の所にある、剣岳の東山麓に鎮座しております。神剣、草薙劔をこの地に安置したという。山名、神社名もこの草薙劔に由来するようです。
八劔神社由緒
日本武尊熊襲征伐の時當国を経歴し給ふ、酋長田部今朝麿村人と共に厚く之を迎ふ。尊此の國の風俗地理等尋ね問わせ給ふ。今朝麿詳かに對へ奉る。尊喜び一方ならず帰路再び此の地に留り給ふ。酋長行宮を築営して守護し奉る。尊いたく當地の人情風致を賞し給ふ。安閑天皇の御時今朝麿の遠孫人麿に神託ありて當社を劔山上に奉祀す。
天智天皇七年十一月草薙劔を當社に安置す。
祭神 日本武尊・須佐鳴尊・宮簀姫命
中山の稱起り
日本武尊此の地に御駐輦の折山頂に登りて四方の風景を見まわして『この山の風景他にすぐれて姿いかめしく進雄の健き形をなしている。今吾賊徒を平討して天皇の聖徳西海に照し國民帰服しておのづから静かなる世の中山なり』と宣られたによる。(社記による)
植木・神崎の稱起り
尊御山を下らせ給ひて中山と新入の界にある奇石の下で休まれた。此の所を神崎といふ。又後の世の為に験を遺そうと弟彦公をやって一株の松の木を植えられた。茲に植木の稱が起った。(社記による)
草薙劔を安置した
天智天皇七年十一月に新羅(今の韓国)の沙門道行が草薙劔を盗んで筑紫まで逃げ雨風の為帰り得ず発見され劔は難をまぬがれた。其の時往古の縁故から當社に假殿を設けて暫くの間安置し奉った。此の事があってから八劔大明神は更に栄え國主領主は神威を畏み社殿を建立し参拝者は日に月に多くなった。(社記・古文書による)
両部習合のお宮
當社は、往古は八劔権現又は八劔大明神といって神を祭ると共に佛教が傳って後、日本武尊が武蔵野で火中に立たれた姿が不動明王だとなし神殿の外に本堂を設けて祭ってゐたが後に仁安年中からは六坊の坊舎を建て六坊を置き更に馬場の南北に南薬師及北薬師を建て、南薬師は伊豆坊、別當坊、中の坊が受持ち、北薬師は北の坊、浦の坊、辻の坊が管理した。六坊は祭の間本堂で讀経し御幸の時には輿をかきお供した。
不動明王の造は徳川末期神佛混合が禁ぜられた時、北薬師に移した。
由緒書等の原文はこちら。
29号線近くに立つ一の鳥居と社号標。境内迄は600m程。
山陽新幹線前に立つ二の鳥居
三の鳥居
四の鳥居
神社遠景
入り口の五の鳥居と社号標
注連柱と六の鳥居
参道途中の狛犬。拡大写真はこちら。
(明治10年(1877)6月吉日建立)
参道最後の石段
石段途中、高い所にいる狛犬。普通右側に置かれる方は左に首を曲げるのだが、反対を向いています。拡大写真はこちら。
(慶応元年(1865)乙丑建立)
境内入り口に立つ注連掛石
境内入り口、燈籠を支える狛犬。拡大写真はこちら。
(弘化3年(1846)丙午2月建立)
拝殿
拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。
(文政8年(1825)乙酉9月吉日建立)
拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。
(安政6年(1859)己未8月吉祥日建立)
本殿
本殿両脇の狛犬。拡大写真はこちら。
(明治10年(1877)7月吉日建立)
石祠
石碑
境内の桜