蒲生(かもう)八幡神社
北九州市小倉南区蒲生5-6-10(平成22年4月4日)
東経130度51分44.33秒、北緯33度50分1.55秒に鎮座。
この神社は63号線・蒲生八幡宮信号角に鎮座しています。一の鳥居はそこから約600m程東の国道32号線に立っているのが、この社の嘗ての社域の広さを物語っています。
蒲生八幡宮信号角の旧道には満開の桜の中に二の鳥居が立ち、社頭には狛犬と共に朱の台輪鳥居が建立されています。坂道の参道を上がると神門があり、参道は右に曲がり石段が境内へと続いていますが、その間二対の狛犬が見られます。
境内には「縣社蒲生八幡神社」と書かれた社号標が立ち、正面には唐破風付きの屋根を持つ横に広い大きな拝殿が立っています。その後ろに建立されている幣殿は北九州市で最古、本殿は旧豊前国で最古の社殿だそうです。
又、境内左右には幸神社、稲荷社等の境内社や碑が祀られています。
旧縣社に相応しい環境と、整備が行き届いた境内社殿などと共に、狛犬ファンにもお勧めの神社です。
御祭神:応神天皇、神功皇后、宗像三女神、大山祇命、細川幽斎、細川忠興
祭礼日:不明
境内社:幸神社、綿津見神社、規矩稲荷社、猿田彦大神
由緒:往昔、蒲生村虹山(巣山)の峯に多紀理比売命・多岐都比売命・市寸島比売命の三神が天降り、「我、永く此地を守らん」と告げる。そこで、里人は紫の池の辺に多紀理比売命を祀り、虹山の山頂に多岐都比売命を祀り(蒲生宮)、紫の池の北に市寸島比売命を祀った。後に、蒲生宮に応神天皇・神功皇后を祀り、蒲生八幡宮とした。
元暦元年甲辰年に壇ノ浦の合戦で平氏が敗戦。安徳帝は入水し、三種の神器も海中に沈む。源頼朝はこのことに嘆き、規矩郡(企救郡)高浜浦の漁人の長、岩松与三に神器を探し出すよう命じた。岩松は蒲生八幡宮に神器発見・安全を祈願したのち海に入り、鏡と勾玉を網に得ることができ、源頼朝に献上。岩松はこの功績により、規矩一郡を与えられるが、蒲生の神々の御神徳によるものとし、一郡すべてを神社に寄進した。
元弘・正慶・建武年間、虹山城主・規矩氏に崇敬を受け、多くの神領を与えられる。応永年間には、規矩親忠が神殿を建立。大永2年4月に小倉城主・小野田種尚より、規矩郡大野庄平田二反を与えられる。
天正のはじめに、大友宗麟の兵火に罹り、神社焼失。このことを憂いた、岩松弥兵衛(三郎兵衛)は高浜(現在の井筒屋付近)に神社を造立し、社号を規矩(企救)八幡宮(高浜八幡宮)とした。小倉城主・高橋鑑種が社殿造営し、鳥居を建立する。天正年間、小倉城主・毛利成儀(勝信)からも篤い崇敬を受ける。慶長7
年、小倉城築城に伴い、細川忠興は神社が鎮座する高浜を東曲輪とするために規矩八幡宮をもとの蒲生の地(中島山)に遷し、社号を再び蒲生八幡宮とした。寛永9
年に入国した小笠原藩からも篤い崇敬を受け、社殿造営等がなされた。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
国道32号線・鳥居前信号に立つ一の鳥居
神社はここから凡そ600mほど西北西に鎮座しています。 |
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神社遠景 |
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旧道に立つ二の鳥居 |
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社頭 |
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三の鳥居前にいる天保6年生まれの狛犬
出雲型ですが、顔つき、耳の長さ、鬣、尾の感じが現地のものとは微妙に異なるので、この地で作られたのかも知れません。砂岩だとは思うのですが、非常に保存状態が良好です。
狛犬の拡大写真はこちらで |
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(天保6年(1835)乙未8月建立) |
神社参道入口に立つ三の台輪鳥居 |
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神門 |
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境内へと続く石段の参道 |
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石段参道途中にいる昭和3年生まれの狛犬
吽が玉に手を掛ける、この地特有の伝統を継承しています。
狛犬の拡大写真はこちらで |
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(昭和3年(1928)建立) |
境内入口 |
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境内に立つ社号標
「縣社蒲生八幡神社」 |
唐破風付きの屋根を持つ横に広い大きな拝殿 |
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幣殿前にいる浪速狛犬 |
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流造りの本殿 |
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本殿脇の縁に居る古そうな狛犬
近づけないので良くは分かりませんが、堂々とした立派な造りをしています。 |
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境内社:綿津見神社 |
末社二社 |
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末社 |
猿田彦大神 |
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