宝満宮

糟屋郡須恵町須恵 (平成22年4月1日)

東経130度30分27.45秒、北緯33度35分15.40秒に鎮座。

この神社は、香椎線・須恵中央駅の北400m程の辺りに鎮座しております。福岡市に近いこの辺りも福岡市のベッドタウンとなりつつあるのでしょうか、整然と区画された住宅地がちらほらと見受けられます。

祭神 玉依姫命、太祖権現、志賀大明神、菅原神、須賀大神
宝満宮は宝満神(玉依姫命)を祭る神社です。宝満山の竈門神社を本社とし明治時代の一時期には竈門神社と称した事もあります。
その由来は古く平安時代中期応徳二年(1084)竈門神社の荘園八十庄の北境、今の古宮地蔵堂の位置に勧請されたのが始まりと伝えられ、江戸時代には既に現在地に移転し、旧社には古宮の地名も生れました。なお汐井掛は太祖権現遙拝の地であったと言います。
江戸時代を通じ宝満宮は須恵村・上須恵村・佐谷村・新原村四カ村の産土神として近隣の信仰を集めていました。
宝満山から若杉山にかけては古来天台宗修験の霊場とされ佛教遺跡が多く残っていますが、宝満宮も峰入りに加わるなど、宝満山修験活動に加わったとされます。
戦国時代大内氏の臣杉連並(高鳥居城主)は当社を崇敬しましたが左谷(佐谷)と右谷(若杉)の坊家争闘し多くの同坊が焼失した際、当社も炎上し、古文書宝器等一切を焼失しました。
天正十五年(1587)小早川隆景は名島城を築き当社の頽廃を嘆いて一宇の社殿を造営。黒田長政公は紫縮緬の幔幕三張を下賜され忠之公は本社を修補し若杉山山林を寄進、元禄十二年(1699)宝満山の座主楞伽院兼雅が国家の安泰と黒田綱政公四十二歳の厄払のため峰入を行った際当社の坊衆もこれに参加したと伝えられ綱政公は自筆の絵馬を寄進された。さらに宣政公の参詣、継高公は明和四年(1767)当社を再建、斉清公が文化二年(1804)修復するなど歴代藩主の崇敬が篤かったと言われています。
境内由緒書より。原文はこちら。

宝満山楞伽院の荘園八十庄の北境にあった分院だった様です。明治の時、本社の竈門神社と一緒に「竈門神社」となり、その後「宝満宮」と改称されたと言うことです。

神社全景

二の鳥居

境内入り口の岡崎型狛犬

(皇紀2600年(昭和15)奉納)

境内

拝殿

拝殿前、年代不明の狛犬。拡大写真はこちら。

本殿

末社

忠魂碑

境内