斎宮

糟屋郡久山町山田 (平成22年4月2日)

東経130度30分03.60秒、北緯33度39分23.50秒に鎮座。

この神社は、福岡市の北東10km程の辺り、山田小学校のすぐ南側に鎮座しております。

神功皇后と斎宮(いつきのみや)
神功皇后は、『古事記』『日本書紀』に登場し、日本史上はじめて朝鮮半島へ出兵したと伝えられる人物です。『日本書紀』巻第九、神功皇后(気長足姫尊)の章には、夫である仲哀天皇がお亡くなりになられた香椎宮、応神天皇をお産みになられた宇美八幡宮などとともに斎宮の事が記されています。
『日本書紀』によると神功皇后は仲哀天皇が香椎でお亡くなりになると、小山田邑に斎宮を作らせ、天皇の亡骸を運んで安置し、自ら神主となられています。この斎宮の故地について、江戸時代の学者、貝原益軒が『筑前国続風土記』のなかで次のように述べています。
「聖母屋敷、上山田村にあり。其の所に、神功皇后の御社あり。是、神功皇后斎宮の址なるにや。」「此山田村は、香椎に近ければ、此村にある聖母屋敷こそ、まさしき斎宮の址には侍るべき。」
ここ山田の地に鎮座する斎宮は、日本最古の国史に記載された「小山田邑、斎宮」の比定地とされる神社です。千数百年の間、人々に深く信仰され、大切に守られてきました。
町内には六所宮跡や審神者神社など神功皇后にゆかりの深い神社や、神功皇后を描いた絵馬などが多く残っています。
久山町教育委員会

斎宮
御祭神
天疎向津姫命(あまさかるむかつひめのみこと)(天照大神)
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
事代主命(ことしろぬしの命)
住吉三神(表筒男、中筒男、底筒男)
息長足媛神(神功皇后)
合祀 六所神(伊弉諾尊、伊弉冉尊、瓊々杵尊、速玉男命、事解男命、国常立の尊)、豊受大神
境内社 祇園社
山田邑斎宮の由来記
当宮は神功皇后が新羅征伐のとき、みづから神主となり、
神教を祈願された霊蹤の地であり、つぎのような由来を伝えている。
第十四代仲哀天皇は、仲哀八年巳卯の春、神功皇后と御一緒に熊襲征伐のため、筑紫の香椎宮に行幸啓された。そのとき皇后に「熊襲の服せざるは、新羅の後援なれば本幹たる新羅を攻め給わば、枝葉の熊襲はみづから枯れん」という神のおつげがあった。しかし仲哀天皇は、神のおつげを無視して熊襲を討たれたため、失敗されて、香椎宮に帰られ、翌年二月、病気で崩御された。
皇后は非常にお嘆きになったが、密かに御屍を納めになり、喪をかくして、賊徒征伐の業をお継ぎになった。
そうして、香椎宮から群臣百寮を率いて小山田邑(上山田)に行啓され、御住居になったところが、聖母屋敷で、聖母屋敷の西南にあたる六所の地に斎宮を造営され、皇后みづから神主となり、六所神を祀り、三月朔日から七日七晩戦勝の祈願をなされた。神々の御加護により、國内も治まり、三韓も戦わずして平定された。
皇后が諸々の戦術と戦勝祈願をされた六所大明神は慶長年中大洪水で破損したので、村民は非常に恐懼して聖母屋敷に合祀した。この社の跡を「ろくしゅう」と言って、六所田(神田)の中に今も社の跡を残されている。
なお、境外神社として審神者(さにわ)神社があるが祭神は、中臣烏賊津使(なかとみのいかつのおみ)「日本書紀」の神功皇后紀に皇后の祈願に際して中臣烏賊津使を喚して審神者とす、とある。審神者とは神の託宣を請うてその意を伝える人である。
この社は、慶長三年まで六所の社殿のあった六所神と向かいあい両社の間に建造物を禁止されていたという言い伝えがある。また、一般に「おやしろさま」と呼び勝負の神さまとされている。
これらを総合して考えてみると二千余年の古跡は、それぞれしっかりと上山田の地に刻まれて、神功皇后の御偉業とともに千古に朽ちないこと物語っている。
境内由緒書より。教育委員会、及び由緒書原文はこちら。

神社入り口

一の鳥居と社号標「斎宮 聖母屋敷」。「聖母」とは神功皇后の事で、「しょうも」と読むようです。

二の鳥居

拝殿

佐賀狛犬のように岩に手を置くひょうきんな狛犬。拡大写真はこちら。

(大正12年(1923)12月6日建立)

注連縄

本殿


祇園神社