高祖(たかす)神社

糸島市高祖1578(平成22年4月5日)

東経130度15分39.95秒、北緯33度32分26.91秒に鎮座。

 この神社は高祖山(標高416m)南西麓に鎮座しています。
 社号標の立つ参道入口から神社までは約400m、広大な社地を有する神社のようです。神社入口には注連縄を架けた注連柱が立ち、参道は石段と踊り場が連続して約200mほどの登りです。その間、境内社の徳満神社境内には今を盛りと桜が咲き誇り、参道左右は杉や広葉樹の自然林が豊かで、それを眺めていると疲れを感じる暇がありません。
 境内入口には元禄3年(1690)建立の古い二の明神鳥居が立ち、正面には四重に組まれた石垣の上に社殿が建立されています。拝殿は妻入りの開放的な建物で、本殿は華麗且つ重厚な檜皮葺三間社流造り。石垣の見事さと社殿の素晴らしさに暫くは見とれていました。
 又、境内入口にはこの地域では余り見かけなかった出雲丹後狛犬がおり、周囲の鎮守の杜はとても落ち着いた気分にさせてくれる素敵な神社でした。

 御祭神:彦火々出見尊、玉依姫命、息長足比女命
 祭礼日:1月1日・元旦祭、4月26日・春大祭、6月第四日曜日・夏大祭、9月1日・風止祭、9月13日・徳満宮大祭 酪農祈願祭、10月25日・高祖神楽夜神楽奉納、10月26日・秋大祭、10月31日・神立祭、11月30日・神待祭
 境内社:徳満神社、思兼神社、伊弉諾神社、境外社:幸神社、庚申社、天神社
 由緒:高祖神社は彦火々出見尊を主座に、左座に玉依姫命、右座に息長足比女命の三柱をお祀りする神社で、いま創建の時を詳かに出来ないが、九州諸将軍記には「神代より鎮座あり神功皇后、三韓より凱旋の後、当社の社殿を乾の方に向け御建立」と記されている。この機縁で神功皇后を相殿にお祀りしたと伝えている。
 当社は、古代から怡土郡の惣社(中世には怡土庄一の宮)と崇敬される神社で、三代実録には、いまから千百五年前の元慶元年九月二十五日発亥「正六位高礒比賣神に従五位下を授く」と記されている。この高礒比売神とは高祖神社のことで、相殿に玉依姫命、息長足比売命をお祀りしてあるので、このように呼ばれたと語り伝えている。
 明治五年十一月怡土郡郷社、大正四年十一月神饌幣帛料供進社、大正十五年六月二十九日県社昇格、昭和二十八年七月二十日、域外境内社としてクヌギ幸神社、庚申社、浦方天神社を含め宗教法人高祖神社を設立し、地元の人々の崇敬を集めている。また境内神社として伊弉諾神社・思兼神社・農業、特に畜産農家の信仰厚い徳満神社の三社がある。

 高祖神楽は今から五百十五年前の応仁元年、戦国動乱の時代、時の高祖城主、原田筑前守種親が盟主である周防国山口城主、大内政弘の要請を受けて京都守護の大任に当った時、戦陣のつれづれに習得した「京の能神楽」を郷土に伝えたものとされていますが、この外にも異説があり、その始めは定かではありません。
 永い歴史と伝統に受け継がれて来た高祖神楽は、江戸時代までは旧怡土郡の神職の奉仕で舞われていましたが、明治になってからは高祖神社の氏子の人たちによって受け継がれ、現在は十三人の氏子の神楽師の奉仕で、毎年春の祈年祭、四月二十六日午後一時ごろから夕方まで高祖神社境内の特設舞台で舞われています。
 その真価は、昭和四十六年五月十九日には前原町指定民俗文化財、昭和五十六年三月五日には福岡県無形民俗文化財の指定を受けている格調高い郷土芸能であります。
(「高祖神社公式サイト」より)

参道入口に立つ社号標 参道入口
神社入口
神社入口に立つ注連縄を架けた注連柱
参道途中に立つ一の鳥居
参道途中左側に奉られる境内社:徳満神社境内
境内社:徳満神社
参道の様子
参道途中に立つ注連縄を架けた注連柱
参道の様子
境内入口
境内入口に立つ元禄3年(1690)建立の二の明神鳥居
境内全景(パノラマ写真)
社殿の建つ上の境内入口
上の境内入口にいる明治39年生まれの出雲丹後狛犬
来待石の出雲丹後としてはとても保存状態の良い狛犬です。
狛犬の拡大写真はこちらで
(明治39年(1906)4月3日建立)
妻入りの開放的な拝殿
華麗且つ重厚な檜皮葺三間社流造りの本殿
境内社:思兼神社 境内社:伊弉諾神社
神楽殿
御神木
社殿周囲の鎮守の杜の様子