八幡宮

糸島市東1105(平成22年4月5日)

東経130度11分1.68秒、北緯33度31分56.84秒に鎮座。

 この神社は筑肥線・加布里駅の南南東約1km、長野川右岸に鎮座しています。一の鳥居の立つ参道入口は神社の手前約200m、「正八幡宮」の額が架かっています。丁度時期が良かったのでしょう、長野川に架かる神橋を渡ると穏やかな水音の中に、社頭には桜の大木、その淡いピンクと鎮守の杜の深い緑が得も言われぬハーモニーを醸しだし、素晴らしい景観の神社でした。
 境内入口には古色蒼然たる二の鳥居が立ち、境内には五重石塔、注連柱の後ろに建立された拝殿前には大型の肥前狛犬が居ます。本殿は流造り。社殿左右には境内社が数社祀られていますが、その中の一社熊野宮には随神さんと拝殿前にいる大型の肥前狛犬とそっくりな顔立ちの小型の肥前狛犬が居ます。

 御祭神:誉田別天皇、息長足姫命、比賣大神、合祀:祇園宮、天満宮
 祭礼日:9月13日
 境内社:疫神社、熊野宮
 由緒:建立は応和3年(963)9月13日で、天慶3年(935)に藤原純友を討伐できたのは、神霊の加護によるとして、征西大将軍原田春實公がその子泰種と共に山城国(京都)南男山の神霊を勧請し奉ったのが鎮座の由緒である。
 その後も原田春實公の子孫種直公は、源平の戦いで安徳天皇を守護し、壇ノ浦で源義経と戦って敗れ、鎌倉扇谷に幽囚されること13年。この間牢中で日暮八幡宮に祈誓し応験あり、建久8年(1197)免されて岩門城に帰る。その神澤に感謝しつつも距離が遠く思うままにならないので、国政をその子に禅り、当社の東約100m付近に仮宅を設け、八幡宮を補修崇敬した。種直公の墓は当宮の南隣にある。

参道入口
参道入口に立つ明神鳥居 鳥居に架かる額
「正八幡宮」
長野川に架かる神橋
社頭
神社入口
境内入口に立つ古色蒼然たる二の鳥居
境内の様子と五重石塔
拝殿前にいる肥前狛犬
体高約1mほどの大きな肥前です。比較的保存状態が良く、阿には鬣の渦巻きが残っています。尾は一本ですが、途中から扇形に広がっているように見えます。顔はやや上向き、眼が窪み鼻筋が通って、耳は鬣の中に埋もれるように作られています。多分肥前としては後期の物なのでしょう、完成度が高いように思われます。
狛犬の拡大写真はこちらで
注連柱と拝殿
本殿
境内社:疫神社
末社 御櫛石
境内社:熊野宮
熊野宮社殿縁にいる随神さん
熊野宮社殿縁にいる肥前狛犬
体高が30cm位の小さな子達で、顔つきは拝殿前の大きな肥前とまるで親子のようにそっくりです。
狛犬の拡大写真はこちらで
御神木・ムク 御神木・ナギ