福岡市東区香椎4-16-1 (平成22年4月2日)
東経130度27分18.1秒、北緯33度39分0.9秒に鎮座。
住所は東区だが、福岡市中心より北という辺り、JR香椎線・香椎神宮駅の北に鎮座する神社です。伊勢神宮、気比神宮、石清水八幡宮と共に「本朝四所」と称される由緒ある神社で、今も由緒に相応しい雰囲気を称える素晴らしい神社です。
境内も広大ですが、さらに周辺にも関係社が多く点在しており、充分時間をとってゆっくりと散策しながらの参拝をお薦めします。境内及び周辺案内図はこちら。
香椎宮
祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、住吉大神。3世紀頃、仲哀天皇は国の内外を平定されるため、神功皇后とともにこの地に橿日宮を営まれました。当宮は、この地で没した仲哀天皇の霊を、神功皇后が祭られたのが起源とされており、古くは「香椎廟」と称され、朝廷や人々の崇敬を受けてきました。また、享和元年(1802)に再建された本殿は「香椎造」と呼ばれ、その優れた建築様式は国の重要文化財に指定されています。
『福岡・博多の観光案内サイト よかなび』現地説明板より。原文はこちら。
香椎宮御由緒
香椎宮の創建はは仲衷天皇の御神霊を神功皇后躬らお祀りあそばされた(200)ことに由来し、これを古宮と申します。神功皇后の宮は、元正天皇の養老七年(723)皇后の御神託により朝廷より九州に詔して社殿の造営を始められ、聖武天皇の神亀元年(724)に竣工し、この両宮を併せて香椎廟と稱します。明治以後官幣大社香椎宮。戦後は香椎宮と稱しています。
香椎廟は本朝鎮護の宗廟なれば廟号を以て格別の御崇敬を捧げさせられ奈良平安このかた廟司以下六百十余戸の奉仕団また千数百町歩の神領を賜り国家の大事に際しては必ず奉幣の勅使を差遣せられ現代に於いては十年毎に勅祭が斎行せられます。
仲哀天皇八年(199)筑紫の橿日宮に坐しまして天下治しめし率先御精励のさなか御志なかばにして俄に崩御遊ばされました。
皇后は御遺志を継がれ、神祇の教を被け御懐妊の身を以て、躬つから国内を平定せられ 更に船団を率いて三韓御渡航の壮挙を果され、初めて国際国家としての日本の地位を確立せられました。この御大業は正に神わざとして史上に輝き、朝貢あり帰化あり交流盛んにして国運愈隆昌に赴きました。
御子、應神天皇は八幡神として遍く信仰を集められ、御孫、仁徳天皇は世界最大の陵墓たる仁徳陵によって聖徳を偲ぶことができます。かの雄渾な土木技術を始め建築、縫織、工藝、文教あらゆる文化の恩恵は全く当御祭神の赫々たる御神威に淵源し、やがて絢爛たる日本文化の花が開かれて行きます。この国に生を享ける者の一日も忘るまじき御神徳であります。
境内由緒書より。原文はこちら。
県道24号線を横切るJR1鹿児島本線踏切近くに立つ社号標。
この後鳥居が立っているのですが、道が狭く駐車出来ないため写真は撮れませんでした。
境内入り口
社号標と参道
楼門前の鳥居
楼門
楼門内側
この神社では唯一の籠神社型狛犬。拡大写真はこちら。
(弘化元年(1844)甲辰建立)
中門と回廊
中門から見る拝殿
幣殿
本殿。享和元年(1801)福岡十代藩主、黒田長順公の再建。香椎造と云われる独特な造り。
摂社 武内神社
御祭神 大臣武内宿禰命
御由緒 大臣は孝元天皇の曾孫にして六朝の帝皇を輔け武勇英威萬世を覆うふ。殊に應神帝を襁褓のうちに養育奉り、異國本朝の強敵を征し帝業無窮の基を開き給ふ。其功勲四海に被り子孫長く大臣執政に位し凡そ八十八姓の祖神と仰がれ給ふ。神功、應神の御廟にはいづれの社にも大臣を配祀し天子の宗廟と共に萬世に血食し給ふこと類希なる神徳なり。御年三百餘歳と云へり。往古二月六日の祭りに太宰師國郡司を率て本宮を拝しして退出し更に大臣の殿に参入して再拝両段して退くと(香椎廟宮記)
境内由緒書より。
入り口
拝殿
本殿
摂社 巻尾神社 御祭神 中臣鳥賊臣大連
鳥居と拝殿
本殿
末社 早辻神社 御祭神 早辻神社
入り口
首輪を付けた狛犬。東南アジア生まれでしょうか。
(平成14年(2002)1月吉日建立)
扇塚と武内宿禰像。抱かれている赤ちゃんは後の應神天皇か。
亀乃池
参道
社殿
末社 稲荷神社と鶏石神社
菖蒲池に浮かぶ弁財天
池畔の桜
御神木「綾杉」
神功皇后様が「とこしへに本朝を鎮め護るべし」と祈りをこめてお植えになった杉で紀元860年(西暦200)のことであります。 「ちはやぶる香椎の宮のあや杉は 神のみそきにたてるなりけり」(新古今和歌集 読み人知らず) 「秋立つや千早ぶる世の杉ありて」(夏目漱石) 神功皇后の三韓征伐から帰国した際、三種の宝を埋め、「永遠に本朝を鎮護すべし」と誓いを立てて鎧の袖の杉枝をその上に挿したものが現在の大木となったとされる。普通の杉と葉の形状が異なり、綾状になっていることからこの名が付いた。大宰帥に任じられた者は、香椎宮に参拝し神職からこの杉の葉を冠に挿されるのが恒例とされていた。 『ウィキペディア(Wikipedia)』 |
奏楽殿
軍艦香椎顕彰之碑
軍艦香椎顕彰碑
軍艦香椎は、練習巡洋艦として姉妹艦香取、鹿島に次いで昭和十五年七月十五日、三菱重工横浜造船所にて竣工した。初代艦長岩渕三次大佐、香推宮に詣で、御分身を請願され、守護神として奉載し就役す。
既に時局は、急を告げ、旗艦として直ちに南部仏印に進駐の陸軍部隊を護衛し、サイゴンに進出す。大東亜戦争開始に当り、わが国の運命を屠して敢行せる、山下奉文将軍麾下第二十五軍の大部隊の船団を護衛し、タイ国シンゴラ・コタバル等の上陸作戦を支援し、シンガポール攻略の端緒を開く。以後全作戦の支援を主任務とし、南支那海は勿論、西は、印度洋、東は遠くラバウルに至る広大なる海域を、総航程一万五千浬に及ぶ作戦行動に従事す。
昭和二十年一月十二日、第101戦隊の旗艦として、航空燃料等の強行輸送船団を護衛し航行中、仏印キノン沖で、敵機動艦隊の艦載機延べ300有余の執拗な攻撃を受け、克く奮戦激闘したが、被害累積して十隻の船団悉く撃沈され、「最後に香椎は魚雷二本、中部および後部に命中」艦は一瞬にして棒立ちなるも、機銃は尚も応戦、司令官渋谷紫郎少将、艦長松村翠大佐以下死闘後遂に力尽きて、艦と運命を共にし者、便乗者を含め一千余名、生存者は兵員僅か十七名に過ぎず。死しても止まざる殉国の気魂は、米軍をして心胆を寒からしめ、深く感銘を与え敢えて戦史の記録に特筆せしむ。
想うに、かくの如き勇猛果敢にして従容として死地に赴いた崇高なる精神は、光栄ある我が海軍の精華にして永く歴史に躍動するであろう。
ここに軍艦香椎の顕彰の碑を建立し艦と共に短い生涯を閉じた英霊の勇戦と労苦を偲び、祖国日本の興隆を祈念する。
昭和五十六年五月十日 軍艦香椎会