筑紫野市大字原田2550 (平成22年4月1日)
東経130度32分42.75秒、北緯33度27分13.8秒に鎮座。
この神社は、九州自動車道・筑紫野ICの南東3km程の辺り、佐賀県に近い住宅地の中にある小高い丘の上に鎮座しております。筑紫国の由来ともなった由緒ある神社で、式内社・筑紫神社に比定されている古社であります。今も由緒に相応しい雰囲気をたたえ、豊かな杜に囲まれて鎮まっております。
筑紫神社 國號起源 延喜式名神大社
祭神・神徳
筑紫の神 筑紫の国魂・筑紫の国号起源・氏神様
玉依姫命 縁結び・子孫繁栄の神
坂上田村麿 武家の神・必勝、戦いの神
由緒
祭神を筑紫の神といい、筑紫の国魂である。奈良時代の「筑後国風土記」の神話によると、『筑前と筑後の境となる山に荒ぶる神がいて、峠を往きかう人を多く取り殺していた。その神は人の命尽(イノチツクス)の神と呼ばれた。後にこの神を祀って筑紫の神と呼ぶようになった』とされ奈良時代以前から当社は在ったと推測される。筑紫の語源は当社の神号から起こった。筑紫の神が白日別神・五十猛命という説もあるが断定はできていない。後世に玉依姫命(竈門神社より勧請)、坂上田村麿を祭祀した。
当社は延喜式神名帳(927)に名神大とあり、朝廷より尊崇されていた。日本三大実録によると『貞観元年(859)に筑紫神社従四位下を奉授され、元慶三年(879)に筑紫神社従四位上を授く』とある。類聚符宣抄に天元二年(979)の官符に『住吉・香椎・筑紫・竈門・筥崎等の宮は大宮司を以て、その貫首となす』とある。
鎌倉時代から筑紫村の地頭職であった筑紫氏が社司を兼ねていた。その後、享徳二年(1453)社殿が造営された。(それ以前にも社殿はあったと推測されるが、記録としては残っていない)筑紫氏は応仁・文明の頃より筑紫村を去り勝尾城(鳥栖市)に移居し武威を振るっていたが、島津勢により落城した。神領は没収、神宝や古文書類も兵火にかかり当社は荒廃した。寛文二年(1662)に荒廃した社殿を再建、延宝八年(1680)火災で焼失したが再興した。古い石の鳥居は元禄二年(1699)に建てられた。拝殿の「筑紫宮」の額も同年に寄贈された。現在の本殿は貝原益軒の愁訴により正徳二年(1712)に黒田藩主から資材を賜り再建されたものだ。明治維新の近代社格制度により、明治五年(1872)に郷社に定められた。明治四十四年(1911)に上原田の若宮神社が飛地神幸所境内地として編入された。大正四年(1916)には県社に昇格した。昭和九年(1934)には拝殿が造営され、昭和六十三年(1988)には筑紫神社幣殿を中心とした改築、五所神社、若宮神社の建て替え、金刀比羅社の改築が行われた。
附記
粥占祭は、当社に古くから伝わる伝統神事であり、二月十五日に炊いた粥を鉢(文化二年造)に盛って神前に納め、三月十五日に粥面に生えたカビの色合いと毛草によりその年の作物および風水病害の判断をするものである。筑紫野市無形民俗文化財に認定されている。
境内由緒書より。原文はこちら。
参道入り口に立つ一の鳥居
案内と社号標
参道と二の鳥居
参道と注連柱
三の鳥居
狛犬と四の鳥居
参道始め、年代不明の狛犬。拡大写真はこちら。
参道と神門
神門前の狛犬。大きな口と鋭い牙が印象的。拡大写真はこちら。
(大正4年(1915)1月吉日建立)
拝殿と狛犬
猫の様な髭を生やした楽しげな狛犬です。拡大写真はこちら。
(昭和8年(1933)癸酉建立) 隹辰
拝殿内部
本殿
参道左手の稲荷神社
五所神社
五所神社を護る狛犬。台湾生まれでしょうか。
社殿
石碑・石祠
まほろばの碑
遙かな古代 筑前、筑後を合せて「筑紫の国」と名づけ 九州を「筑紫の島」とさえ称した。 ああ、かくも大いなる筑紫。 ここはその発祥地であり中心地である。 ここ筑紫のまほろばに鎮まる産土の神は われわれの遠い祖先の喜びであり 現代のわれわれの誇りであり われわれの子孫が受けつぐべき聖域である。 |