砥上(とかみ)神社

朝倉郡筑前町砥上980 (平成30年1月3日)

東経130度36分11.38秒、北緯33度28分22.19秒に鎮座。

この神社は、筑前町役場の北2.5km程の辺り、砥上の街中に鎮座しております。

御祭神 神功皇后・八幡大神・住吉大神

由緒
伝説では、神功皇后が新羅遠征のおり、諸国の軍衆を招き寄せこの地を「汝らが中宿なり」と仰せられたことから、この辺を中津屋郷と呼び、またこの地で軍衆に命じて兵器を研ぎ磨かせたため「砥上」の名が起こりました。そのときの刀錆で池は赤くにごり、その後、水が澄んだことがないと言い伝えられてます。
前の石鳥居の額字は、花山院内府定誠公(平安時代の内大臣)が書かれたものといわれています。社殿には、斉藤秋圃など有名な画家が書いた絵馬がたくさんあります。
樹齢数百年を経たイチイガシ等の大木が立ち並ぶ鎮守の森は、福岡県環境指標の森の指定を受け、みんなで大切に保護しています。

当社は夜須郡の祖社にして、宮所は古く社伝に、神功皇后新羅を征討せんとして、先ず諸国の軍衆を此の地に召集し給い、中宿(屯営)としたことにより中つ屋と号す。
此所に集まれる軍衆に命じ、兵器を砥ぎ研かせ給うにより、砥上の地名を残せり。征討進発に当り軍議を催し、武神なる武甕槌神を勧請して皇軍の武運を祈り、三韓平定の功を奏し給うと伝う。現在、砥上嶽山上に武宮と在るは是なり。
天文12年(1543)大内田勘解由重国(当社・初代宮司)初めて祭祀をなす。是より、秋月氏は神殿の造営を成し、祭祀料2町余、筑紫氏もまた1町2反の神領を寄進し、崇敬の誠を捧ぐ。後、天正2年(1574)萩尾遠江守治種により社殿の再興あり。貞享4年(1687)夜須郷の産子により修理さる。
当社は、代々夜須郷の氏子はもとより武人の尊崇特に厚く、歴代福岡藩主及び社寺奉行より御祈祷報賽並びに代参のありたることを証す達文多数残れり。
尚、石鳥居の額は花山院内府貞誠公の筆なり。明治5年11月3日、郷社に列せられ現在に至る。
境内由緒書き より。

一の鳥居

二の鳥居

境内入口

拝殿

拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。

(明治36年(1903)建立)

拝殿内部

本殿覆屋


末社