金崎宮

敦賀市金ヶ崎町1-1(平成20年11月1日)

東経136度4分37.05秒、北緯35度39分40.87秒に鎮座。

この神社は、建武中興十五社の一社で、敦賀駅の北2km程の辺り、敦賀湾に突き出た金ヶ崎城跡の中腹に鎮座しております。南北朝と云う戦乱の時代、この地で亡くなった尊良親王と、一旦は逃れたものの、後に捕らえられ毒殺された恒良親王を御祭神とする神社です。

金ヶ崎城跡

敦賀町の東方に位する半島部に在り延元元年十月新田義貞皇太子恒良親王尊良親王を奉じて立籠りたる処にして賊軍の攻撃加はるに及び城兵険に拠り奮戦力闘せしも衆寡敵せず翌年三月城遂に陥り尊良親王自刃し給い新田義顕以下数百人戦没せし処なり
城地の主要部は今官幣中社金崎宮の境内に属し其の背面の高処には城戸焼米出土地月見御殿址等あり
略旧規を存せり
注意
樹木の伐採並に土石の採取を為さざること
其の他指定地域内の現状変更を為さざること
昭和十年十一月
文部省

金ヶ崎城跡(昭和九年三月十三日国の史跡に指定)
 金ヶ崎城は「太平記」に「かの城の有様、三方は海によって岸高く、厳なめらかなり」とあり、この城が天然の要害の地であったことがわかる。
 南北朝時代の延元元年(一三三六)十月、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて当時気比氏治の居城であったここ金ヶ崎城に入城、約半年間足利勢と戦い翌二年三月六日遂に落城、尊良親王、新田義顕(義貞嫡子)以下将士三〇〇余名が亡くなったと伝えられる。
 戦国時代の元亀元年(一五七〇)四月には、織田信長が朝倉義景討伐の軍を起して徳川家康、木下藤吉郎(豊臣秀吉)等が敦賀に進軍、天筒城、金ヶ崎城を落とし越前に攻め入ろうとした時、近江浅井氏が朝倉氏に味方するとの報告、信長は朝倉氏と浅井氏との間に挟まれ窮地に陥り急遽総退却、この時金ヶ崎城に残り殿(しんがり)を務めてこの難関を救ったのが秀吉で、その活躍で無事帰京できたと伝えられる。またこの殿(しんがり)での危機を救ったのは家康で、後の天正十四年(一五八六)家康上洛にあたり、秀吉は金ヶ崎での戦いの救援に謝意を表したとされている。すでに十五、六年前のことで、天下人に一歩近づいた秀吉からすると、金ヶ崎の戦いはその後の二人の関係に大きな影響を与えたといえる。
 現在は三つの城戸跡などを残し、急峻な斜面は当時の面影を偲ばせる。また、最高地(八六メートル)を月見御殿といい、近くには金ヶ崎古城跡の碑があり、この辺り一帯の平地が本丸の跡といわれる。ここからの眺めは素晴らしく天候がよければ越前海岸まで望むことが出来る。
 中腹には金崎宮が創建されていて毎年境内の桜が咲くころ桜の小枝を交換して幸福を願う全国的にも大変珍しい「花換祭」が開催されている。
境内説明板より。

金崎宮縁起
祭神
本宮 金崎宮
尊良親王 後醍醐天皇第一皇子
恒良親王 後醍醐天皇皇太子
摂社 絹掛神社
藤原行房 新田義顕 気比氏治 気比斎晴
瓜生 保 瓜生義鑑 里見時成 里見義氏
由良具滋 長浜顕寛 武田與一 以下殉難将士
由緒
 当宮は敦賀市の市街地の東北に位置し 元官幣中社の社格である
 この金崎山は気比大宮司氏治の居城でもあり延元二年(一三三七)三月六日落城す その時城中に在られた尊良親王は自刃され 義顕氏治らの将兵三百余人も殉じ果てた 皇太子恒良親王は逃れられるも後に幽閉され 翌年京都にて他界される
金崎城落城後五百五十六年を経て明治二十六年(一八九三)敦賀の人々の熱烈なる請願によって尊良親王 恒良親王を祭神に社号を金崎宮として鎮座されたのが本宮である
 又落城の時 殉難した将士を祀る絹掛神社はこれら将士の子孫が有志を募り手続きを経て明治三十年(一八九七)創立認可を受けて設立されたお社である
 この金崎城趾は昭和九年(一九三四)史蹟として文部省より指定を受け月見御殿の旧趾 焼米出土地 経塚のあと 木戸堀切の旧趾などあり由緒の地である
金崎宮
境内由緒書より。

金ヶ崎公園案内図はこちら。

参道入り口。左右の看板には、「金崎宮は難関突破と恋の宮 幸福の階段を駆け上がれ神様はきっと願いを聞いて下さいます。また、金ヶ崎の退き口 これが世に出る関門です耐えられぬということがありますか」(司馬遼太郎・功名が辻より)。

境内迄91の石段。、苦に(92)ならない。皆さんも必ず駆け上がってください。

参道

参道の終わりと手水舎

境内入り口

境内入り口を護る逞しい狛犬。拡大写真はこちら。

(明治45年(1912)5月建立)

境内中央の神楽殿

拝殿

本殿

朝倉神社。朝倉氏六代と一子の御霊をお祀りした神社。

絹掛神社入り口

延元2年(1337)3月6日金ヶ崎城の落城の際、尊良親王に殉じて総大将新田義顕以下321名の武士が自刃した。
祭神はその人達である。
氏名の判明する者僅かに十数名、大半の人は近畿、中国、四国地方の出身であり、敦賀を中心とする北陸各地からの無名戦士も少くはない。
籠城5ヶ月糧食全く尽き果てて、尚数十倍の賊軍に立向かった壮烈な敢闘精神は、日本武士道の華と謳われた。
藤原行房卿・新田義顕卿・気比氏治命・気比斎晴命・瓜生保命・瓜生義鑑命・里見時成命・里見義氏命・由良具滋命・長浜顕寛命・武田与一命などの将士が祀られている。
境内由緒書より。

石段左右の狛犬。拡大写真はこちら。

(明治45年(1912)5月建立)

社殿正面

拝殿前の狛犬。拡大写真はこちら。

(大正2年(1913)1月建立)

参道入り口すぐ右手に鎮座している、愛宕神社入り口。金崎神社では何も触れていません。金崎宮より以前からこの地にあったようです。

社殿

神社から数分でしょうか。月見御殿跡へと通ずる道の途中にあります。あくまでも見込地でしょう。

「尊良親王御墓所見込地」
安政年間(江戸時代末期)この付近より経塚が発見され、石室からいずれも銅製の経筒、円鏡、椀(三点とも敦賀市指定文化財。金崎宮所蔵)が出土した。当時は殆ど話題にならず、遺物は埋め戻されたという。明治維新後、建武中興に関する史実の全国的な見直しが行われ、湊川神社や鎌倉宮、藤島神社などが創建された。
当地においても、金崎城合戦より五百五十余年を経た明治二十三年、金崎宮が官幣中社に列せられ、同二十六年に社殿が竣工、鎮座祭が斎行されたが、それに先立つ、同九年経塚出土品からこの地を尊良親王御墓所と解し「墓所見込地」の碑が建てられた。
しかし、他に立証する資料に乏しく、また京都市内(左京区南禅寺下河原町永観堂そば)に同親王御墓所が指定されていることもあって、現在では親王御台臨、自刃の地として大切に保存されている。

遊歩道から敦賀港が眼下に望めます。