大湊神社

坂井市三国町安島 雄島(平成24年6月1日)

東経136度7分20.89秒、北緯36度14分51.46秒に鎮座。

 この神社は北陸福井の北に位置する島・雄島の高台に鎮座しています。雄島は周囲2.0km、約1時間程度で周囲を一周出来る小さな島ですが、大湊神社はこの島全体と対岸の安島に鎮座する陸ノ宮(あげの宮)迄も含めた広大な社地を有する神社です。
 安島の海岸に「国立公園越前海岸 雄島 福井縣」と書かれた案内板があり、安島と日本海に浮かぶ島・雄島を約200mの朱塗りの神橋がまるで神様の通り道の様に架けられています。
 雄島に上陸すると石畳の参道の奥に一の鳥居が建立され、鳥居を潜ると間もなく鬱蒼とした原始林の中を石段の参道が北西に向かって造られ、途中石段は一旦途切れ、今度は方向を南西に変え、又登ります。二の鳥居を潜ると間もなく社務所。置き石を一歩一歩踏みしめながら進むと、灯篭や手水舎がある境内入口に辿り着きます。
 県文化財指定の拝殿や本殿は境内右側に建立されており、拝殿の対面には陸ノ宮や東尋坊に向けて空間が空けられ朱の鳥居が建立されています。
 雄島は東尋坊と共に国の名勝天然記念物に指定され、又、越前加賀海岸国定公園の一部でもあり、殆ど人の手が入らない島の中を歩いていると、太古の昔から続くかの様な原始林な中で、野鳥の鳴き声と波の音だけが聞こえる、自然いっぱいの素晴らしい環境の中に鎮座する神社でした。

 御祭神:三保大明神(三尾大明神)、事代主神、少彦名神、相殿(式内 楊瀬神社):大物主神、三穂須々美神、合祀神:天照皇大神、伊邪那岐神、伊邪那美神、応神天皇
 祭礼日:歳旦祭・1月1日、宅神祭・1月2・3日、お獅子祭(神幸祭)・3月20・21日、雄島祭り(大湊神社例大祭)・4月20日、椿祭・5月3・4・5日、海上安全豊漁祈願祭・8月29・30日、秋祭り・10月20日
 由緒: 当社は白雉年間勤請と伝えられます。延喜式内の古社でありまして、往昔異国の軍船が当国へ渡来した時、当神社の大神等が松ヶ原の岡(今の陣ヶ岡)に於て、霊験を顕わし夷賊を退治し給われしことが、後文武天皇の叡聞に達し、大宝元年二月二十日三頭の勅使が当浦に下向されて、三千七百石余の社領を御寄進賜わりました、夫より当社を弓矢の神様と崇め参拝祈願の人々は神前に矢の羽を奉納されることとなりました。殊に海上守護の神様と仰ぎ当港へ輻輳する船舶は必ず当社に参拝されて船の危難除に神前の矢の羽を願いうけて海上安全を祈願する人々が絶えなかったと記されています。
 文治二年の秋、源義経公が奥州へ下降される途中当地に止宿され、当社へ参拝されまして家臣亀井六郎重清の兜一領を神前に奉納、一門の武運と海上の安全を祈願いたしました。(兜今ニ宝蔵ス)
(公の宿舎は時の庄屋久末七平宅 当社の神主は松村豊尚の代と伝えられています)
 後永禄年間朝倉義景公の参拝を賜わり一門の祈願所に定められまして社領など加増せられました。天正年中迄は社家七軒にて社務が執行なわれていましたが、織田信長当国発向の砌 当社の社殿は兵火に罹り社領は又悉く没収されるところとなりましたので、慶長年間迄毎年二月二十日より陣ヶ岡に於て、神主村役人等が相集り海上に向って怨敵退治の二タ手(ふたて)の矢の神射式が十日間盛大に執り行なわれましたが、神主等が無禄となりましたので七家の社司の内六家まで余儀無く餘業に転じ、このため当社の特殊神事として古くから伝えられました行事も行ひ難く遂に中絶の巳む無きに至りました。古老の伝えるところによれば天保の頃まで朧げながらもその古実の遺風をとどめ海上に向って
  「ヤヤノオカカノカドサンテ シュー」
と一声に唱えて矢を射られたと 又この状形を詠まれた歌に
  弥生三日浜のわらべの歌声に
   ややのおかかのかどさせと呼ぶ
      (天保三年古老の記録)
右の神事が行なわれたと伝えられる陣ヶ岡の遺跡に今も儀式に用いられた名称が地名、字名となって残されています。
 その後福井藩主松平忠直公が当社の由緒等御取調べになりまして、社殿の御造営 並びに高二拾石の御社領が寄進され領内大社十四社の内の祈願所に定められまして、一門の崇敬厚く、ここに漸く社務も復興しましたので、古実に因みまして、それより嵩村を御旅所と定め毎年二月二十日、二十一日(現在は三月二十日、二十一日)の両日に改め神領拾ヶ村を各村送りで神事祭が行なわれるやうになりましてより現在尚奉仕されておりますのが、お獅子さまで親しまれてきました当社の春の御渡の神事であります。こうした信仰を中心とされた行事のもとで、神領雄島の村の広大な土地の支配が行なはれました荘園時代の古い制度の名残が偲ばれ、村内の文化の中心地であったかがうかがわれます。
 明治八年旧敦賀県より郷社の社格を賜わり、同四十一年幣帛供進社に指定せられました。同四十五年六月、元無格社大神宮祭神 天照皇大神・伊邪那岐神・伊邪那美神、元境内社八幡宮祭神 応神天皇を合祀しました。
(「大湊神社パンフレット」より)

公式サイト「MEB大湊神社」はこちら

  

「国立公園越前海岸 雄島 福井縣」案内板
安島の海岸から見る神橋と雄島全景
安島と雄島を繋ぐ朱塗りの神橋
雄島の参道入口
一の鳥居前にいる岡崎現代型狛犬
(昭和6年(1931)1月1日建立)
海岸線に立つ一の台輪鳥居
参道の様子
社号標
「式内郷社大湊神社」
北西に向かう石段の参道
ここで石段は一旦途切れ、今度は方向を南西に変え、又登ります。
石段の参道途中に立つ二の明神鳥居
二の鳥居から更に上がって行く石段の参道
社務所
境内入口
境内の様子
県文化財指定の拝殿
桁行1.8m、梁間1.5mの一重入母屋造りで銅板葺の床板張りに造られている。本殿と同時に元和七年(1621)藩主忠直公の造営で、その正面の蟇股や柱には桃山風の様式をとどめている。屋根の勾配は急で、軒の出が浅く、北陸漁村特有の季節風から建物を防ぐため漁家の建築構造を取り入れている。
拝殿内の様子
県文化財指定の本殿鞘堂と、拝殿入り口から見える格子戸越の本殿正面
本殿は、美しい彩色が施されている桃山様式の柱や梁等をもつ一間社流造、桁行1.8m、梁間1.5m、柿葺の小社殿である。棟札によれば、元和七年(1621)、福井藩二代藩主松平忠直が願主となり、大工石井宗行によって、武運長久国家安全祈処として造立されたものである。本殿は文政七年(1824)建造の覆屋の中にあるため、部材の風食は割合に少ない。正面一間の向拝をつけ、向拝柱には欅材が用いられている。向拝中央の蟇股は、表面に松と鳩、裏面に松、母屋のは鳩と橘、鴛鴦夫婦と燕子花(かきつばた)、夷の鯛釣りの彫刻を入れた三種が使われ、いずれも脚の伸びが少なく、殊に夷の鯛釣りは図柄から見て元和までさかのぼることは難しいであろう。用材も桧と欅とが混用され、母屋の円柱、向拝の方柱など、ともに桧材で後世の変改かもしれない。この柱には金襴巻の極彩色を施し、そのほか蟇股などにも美しく彩色してあるが、正面側面の主要部だけで背面にはない。正面昇勾欄宝珠柱は、手作りの素朴な味をもつもので、破風の懸魚は桧材でいいものが下がっている。
拝殿前から見る境内の様子
陸ノ宮(あげの宮)の方向に向いて立っている朱の鳥居
朱の鳥居から見える、陸ノ宮(あげの宮)が鎮座する安島地域
朱の鳥居から遙かに見える東尋坊
スダシイ、タブノキ、ヤブニッケイ、ヤブツバキ、モチノキ等が鬱蒼とした原生林を作り上げています。
境内入口に聳えるご神木
神橋から見ると、神社はこの柱状節理の岩肌の崖上に鎮座しています。