久米田神社

坂井市丸岡町下久米田1-1(平成24年6月2日)

東経136度18分43.25秒、北緯36度06分43.51秒に鎮座。

 この神社はえちぜん鉄道勝山永平寺線・志比堺駅の北約2kmに鎮座しています。九頭龍川に架かる364号線の鳴鹿橋を渡り、越前竹人形の里前から西へ進み、364号線から離れて更に西へ進むと、道路脇に参道入口があり、社号標「式内久米田神社」と一の鳥居が立っています。民家と田圃の間の参道を北に進むと石橋があり、「式内久米田神社」社号標と二の鳥居が立っています。鳥居前には動物除けのネットが張ってありますが、きちんと元に戻せば、開けて入ることが出来、その鳥居の脇には、弥六岩と呼ばれる大きな岩があります。これは、新江用水の橋が時々痛んで、村人が困っていたのを、下久米田に住んでいた力持ち・弥六が山奥から大岩を運んで石橋を架けたという伝説が残る大岩だそうです。石段参道を上ると境内の入口に三の鳥居。やや傾斜のある境内には出雲狛犬に護られて入母屋造りの拝殿と、石段上に流造の本殿が建立されています。

 御祭神:大伴金村大連
 祭礼日:春・4月3日、秋・10月3日
 由緒:当社は、延宝5年(西暦927年)に完成した延喜式の神名帳に記載されている式内社で、久米多神社と尊称されていました。
 御祭神の大伴金村大連は、皇嗣(あとつぎ)のおられなかった第25代武烈天皇が崩御の後、高向の里(現在の丸岡町)に住まわれていた男大迹王を擁立され、その王を第26代天皇(継体天皇 御在位西暦 507年〜531年)に即位させた豪族として知られています。
 当社は、天皇御即位の後、再び高向の里を訪ねられた継体天皇が大伴金村大連の子のお働きに深く感謝され建立されたと伝えられています。
 この由緒について、明治の神社明細帳には、次のように記載されています。 「旧記之レナシ故ニ由緒不詳。然レドモ古老ノ伝フル処ニ曰ク武烈天皇後嗣ナカリシニヨリ大伴金村大連議シテ曰ク、 越前国坂井郡高向郷ニ應神天皇(第十五代天皇)五世ノ孫、男大迹尊御座シマスアリ。性慈仁孝順(生まれつき情け深く親に孝行を尽 くしその意に従順である)、天緒(あまつひつぎ)ヲ承ルヘシト。遂ニ迎エラレテ帝位(天皇の位)ニ即カセ給フ。後、越前国洪水ニテ居民安セス(九 頭龍川の洪水のために高向郷の人々は安心して生活できなかった) 天皇深ク憂ヒ給ヒテ之ヲ治メ給フ。此ノ時再ヒ高向ニ御滞留在リ。 深ク御趣意アリテ、此社ヲ建立シ給フト云フ。明治九年六月十日村社ニ被列。」
 また、御祭神や氏子の敬神の姿を鳴鹿村誌は、「大伴金村は6代50年にわたって朝廷に仕え、大連(西暦五、六世紀のころ大伴、 物部両氏から出て、大臣と並んで朝廷の要職)となり、その間42年に及んだ。社前を通る者古来、鳥居の前では下乗し、汚物は神前を避けて通った。」と記しています。
 当社は、陵山と呼ばれた六呂瀬山の尾根筋中腹に立地し、境内からは、木の間ごしに九頭龍川扇状地一帯を望むことが出来る景勝の地であり、扇状地開拓の拠点であったことが伺われます。

参道入口と神社遠景
参道入口に立つ社号標「式内久米田神社」と一の台輪鳥居
参道の様子
石段参道入口
神橋
「式内久米田神社」社号標と二の台輪鳥居
鳥居前には動物除けのネットが張ってありますが、きちんと元に戻せば、開けて入ることが出来ます。
弥六岩
石段参道の様子
石段参道と境内入口
境内入口に立つ三の台輪鳥居
境内の様子
拝殿前にいる建立年代不明の出雲狛犬
狛犬の拡大写真はこちらで
入母屋造りの拝殿
本殿へと上がる石段参道
流造の本殿