紀倍(きべ)神社

坂井市春江町木部西方寺5-20-1(平成24年6月1日)

東経136度10分38.9秒、北緯36度9分21.08秒に鎮座。

 この神社は西長田駅の西南西約3km、九頭竜川河口部から8km程遡った右岸地域に鎮座しています。
 10号線春日神社付近から一般道を北上していくと農業用水路を越えた辺りで鳥居と「西方寺城の馬場通り」案内板が見えてきます。何と、今でこそ落ち着いた佇まいの松並木としか見えないこの道路(参道)は、古、西方寺城の騎馬武者達の練武の場だったそうです。馬場通りは約250m程北に続き、道路を挟んで神社の森が見えてきます。
 神社入口には社号標「式内紀倍神社」と鳥居が建立され、境内に入ると左手に辯才天宮、手水舎と集落センター。右には境内社とご神木のオニヒバ。中央奥に出雲狛犬に護られて拝殿と弊殿・本殿が建立されています。この社の拝殿にも見事な彫刻が施されてありました。

 御祭神:別雷尊、配祀神:建角身命、玉依日賣命
 祭礼日:10月19日
 境内社:1社
 由緒:人皇代五十代桓武天皇の延暦年間の頃、この地方鬼部郷一帯は未だ湖沼地帯で就中「大沢」と言う沼の付近は雑草木等が恣に業生して昼なお暗く沼には水鬼が棲息して時々出現しては郷民を殺傷掠奪等耐えて暴行を加えるので常に恐怖のどん底にあった。
たまたま紀元千四百六十六年平城天皇の大同元年五月頃より国中は大旱魃になるに及んで水鬼は益々その凶暴性を発揮し、剰へ天地晦冥奔雷、飛電と日夜災害が相ついで起こるので郷民は鳩首対策を協議した結果同年七月十日よりこの地方一帯の草原を開拓すると共に七堂伽藍を建立して山城国加茂宮より健角身命、玉依姫命、別雷神の三柱の分霊を拝載して祀り郷名「キベ」に因みて紀部神社を創建し、同年九月十九日を期して水鬼退治の成功を神前に祈願して神助を仰ぐ一方応援に来着せる叡山七坊の僧兵らの加勢によってさしもの水鬼も今は抗するを得なくなり同年十月十九日遂にその首級を討ち取ることができたのである。郷民の喜びは言語に絶し、此の上はこの鬼体を境内に埋めてそこに桧葉を植えてこの遺業を永く後世へ伝えたのがそもそも「オニヒバ」の由来である。
以来この日を「鬼倍の命取り祭」としてその名が高い。この「オニヒバ」は天正三年織田信長の異神仏焼払の災に遭い樹齢七百有余年にして伽藍と共に烏有に帰したので、当時この遺跡を更に後世に伝えるため二代目桧葉を捕植して今に及んでいる。樹齢四百五十余年と称され樹高七丈七尺(23.3m)周囲一丈二尺(3.7m)の記念木である。
昭和三十九年七月福井県はこの「オニヒバ」を巡る由来と樹齢等に鑑み「天然記念物」に指定してその保存と管理を期することにしたのである。

参道入口
参道入口に立つ石製両部鳥居と額
松並木の参道は約250m程北に向かって続きますが、嘗ては「西方寺城の馬場通り」と呼ばれた練武の場でした。
社頭
神社入口
境内入口に立つ台輪鳥居
鳥居に掛かる額 社号標「式内紀倍神社」
参道・境内の様子
拝殿前、大正8年生まれの出雲狛犬
狛犬の拡大写真はこちらで
(大正8年(1919)10月建立)
千鳥破風付き入母屋造りの拝殿
拝殿懸魚・飛龍
拝殿破風下彫刻・松
拝殿目貫彫刻・龍
拝殿木鼻・お洒落な狛犬
拝殿左側虹梁・狛犬 外と内から
拝殿右側虹梁・狛犬 外と内から
弊殿と本殿

境内社:辯才天宮入口と社号標
今は水が見えませんが本来は水の中に祀られていると思われる石祠の辯才天宮
境内社

県指定天然記念物のご神木・オニヒバ
樹齢・400年以上、高さ・22.8m、幹周・3.2m
退治した鬼体を境内に埋めてそこに桧葉を植えてこの遺業を永く後世へ伝えたのが由来と言われる「オニヒバ」