松阜(まつおか)神社

東経136度11分26.81秒、北緯35度56分28.20秒に鎮座。

鯖江市旭町1-2-14 (平成25年10月19日)

この神社は、北陸本線・鯖江駅の北西100m程の辺り、駅を見下ろす高台に鎮座しております。明治の世となった時、松阜御殿の跡地に嘗ての藩主を御祭神として祀った、結構多く見られる神社です。現在も綺麗に保たれており、きっと善政を行った名君達であろうと思われます。

間部詮房は、猿楽師から大名となり、家宣・白石とのトロイカ体制で、正徳の治を断行した辣腕の老中として知られていますが、こんな所で神となってたとは知りませんでした。

もとは鯖江藩邸内にあって、間部詮房(まなべあきふさ)、詮言(あきとき)を祀っていた受福堂が萬慶寺に移されたのを、明治に入り現在の地に移し、7代詮勝(あきかつ)も祭神に加えたものです。舟津神社の祭神大彦命(おおひこのみこと)らの神々を合祀して、名を松阜神社と改めました。本殿右方に移築された受福堂御門が現存し、鯖江市指定文化財となっています。
鯖江観光公式サイト より

藩祖間部詮房公、越後村上藩主
摂州塩川満任を遠祖とし、六代将軍綱豊の老中格として信任厚く宝永七年高崎五万石藩主として新井白石と正徳の改革を為し、僅か四歳の七代将軍家継の擁護を将軍の遺命により幕政に専心されたが幼君は八歳で早世され八代将軍吉宗の時代となり享保二年二月十一日越後村上に移封され同五年七月十五日村上にて逝去される。享年五十五歳浄念寺に葬る。
初代鯖江藩主 間部詮言公
藩祖の弟君にて享保六年三月二十六日(1721)鯖江藩成立し飛騨郡代窪
島作エ門が奉行として西鯖江に陣屋を構えていたが、当時は稲荷神社・白山神社・誠照寺・南光寺・清光寺などが点在し陣屋前と誠照寺前に十七軒の寒村に過ぎず、越後村上から百三十数里余の道程を藩の用品家財等の大荷駄を三国港から川船で白川に陸揚げし藩民は民家に分寓し、二里三里の隔地から通勤しての大事業であり、原野を拓き丘陵を平らげ沼地を埋め約二ケ年の短期間にて藩鎮・舘舎・住宅・商工が軒を並べ町の面目が整ったが、高崎藩七年余にして村上藩に移封され四年で鯖江への移封で財政の逼迫したなかでの城下町の基礎が造られたが享保九年八月十八日芝三田邸にて逝去される。享年三十五歳。
参道石碑 より

境内より200m程西に建つ一の鳥居

参道

二の鳥居と神額

参道

社号標と石碑。1862年、詮勝の老中在任中の失政を理由に、
鯖江藩は一万石を減封され四万石となっていた筈ですが。

三の鳥居

拝殿

拝殿前の狛犬

本殿


受福堂御門

受福堂は鯖江五代藩主詮茂により藩祖詮房を祀るため、天明四年四月十六日(1784)に藩邸内(屋形町)に創建す。明治維新により廃藩となり万慶寺に移築するも、明治十五年三月二十三日鯖江町の存立がようやく認められのを記念して松阜御殿の跡地(現在地)に明治十六年九月八日に再移築す。・・・・・・・
鯖江市教育委員会

天満神社・福寿稲荷神社・秋葉神社。恐れ多くも境内をみおろす背後のビルはアルファーワン鯖江ホテル。

御輿殿