佐伎治(さきち)神社

大飯郡高浜町宮崎 (平成22年7月27日)

東経135度33分16.07秒、北緯35度28分50.68秒に鎮座。

この神社は、若狭高浜駅の南東500m程の辺り、妙見山の北東山麓に鎮座しております。山麓の神社らしく豊かな緑と、落ち着いた雰囲気の大変静かな神社です。

當社概誌
神社名 佐伎治神社
祭神:素盞嗚命・大己貴命・稻田姫命
由緒
延喜式神名帳大飯郡小七座の一。若狭國神階帳従三位碎導明神。中世社記焼失のため創建年代其他不詳なれども考證によれば、景行天皇皇子磐鹿六雁命に若狭國を授け賜ひし時既に當社在りしものゝ如く今より千八百年以前の創建と推定せれる。
長寛年中神殿改造。永禄年中高浜の領主二條某、社領田七町七反歩寄進。當時社運隆盛なりき。往昔は或は
薗部村なる深田の中園池林という処に在りしとも言い、或は現今の城山の地に在りしとも言う、而して天正年中當國々武田家臣逸見駿河守昌経、現在の地に遷し祀れりと伝う。其後木下宮内少輔利房、高浜の領主となるに及び、大いに崇敬して造営。後堀尾茂助吉晴造営の志ありしも未だ破損なかりしため鐘楼を建立せりという。

元和三年卜部兼英の文に、正一位碎導大明神の行名見ゆれど、進階の年代不詳なり、正一位碎導大明神の鳥居扁額、及正保三年酒井讃岐守忠勝造営の棟札、及び安永六年の造営に際し、酒井修理太夫忠治白銀一枚寄進の棟札存す。中世神佛混合の思想より社域に龍蔵院(真言)を建立、社僧及び別に社人と稱する者を以ちて奉仕し来りしが、明治の新政となるに及び寺院を廃し、新たに神職を任命。明治八年四月縣社に列格。同四十一年四月神饌幣帛供進神社に指定せらる。
境内由緒書より。原文はこちら。

神社入口

一の鳥居と社号標

境内

二の鳥居

石段左右の招魂社系狛犬。拡大写真はこちら。

(年代不明)

拝殿前の出雲丹後。拡大写真はこちら。

(明治43年(1910)10月建立)

摩耗が進んで表情が無いが、未だ現役のようです。

拝殿

拝殿内部

拝殿左右の出雲構え。拡大写真はこちら。

(明治45年(1912)10月建立)

本殿


玉垣稲荷神社

稲荷神社の狛犬


日吉神社

石段上左右の狛犬。拡大写真はこちら。

(年代不明)

日吉神社前の狛犬。拡大写真はこちら。

(慶応元年(1865)乙丑9月建立)

格子戸の内側にお住まいの神殿狛犬。


弁才船模型(明神丸)


不明


御霊神社


不明


廣峯神社

何やらそっぽを向いています。元々は縦置きだったのでしょうか。拡大写真はこちら。

(文政13年(1830)庚寅5月建立)

格子戸内の笏谷狛犬


御神木


手水。龍と亀の口から水が出ています。


小浜藩士だった伴信友。この地にも足を運んだのでしょうか。

伴 信友(ばん のぶとも、1773年3 月17日(安永2年2月25日) - 1846年12 月2日(弘化3年10月14日))は、江戸時代の国学者である。幼名は惟徳。通称は州五郎。号は事負。
博覧強記で、古典の考証に優れていた。 平田篤胤、橘守部、小山田与清とともに、「天保の国学の四大人」と呼ばれる。
若狭国小浜藩士・山岸惟智の四男として生まれたが、1786年(天明2 年)、同藩の伴信当の養子となる。1801年(享和元年)村田春門を介して本居宣長没後の門人となり、宣長の養子の本居大平に国学を学ぶ。1821年(文政4 年)、息子の信近に家督を譲り、以後、学問に専念した。
平田篤胤、黒川春村、本居内遠などと交流があり、篤胤からは君兄と慕われていたが、後に齟齬を来して決別した。師弟関係を好まず、弟子をとることはなかった。
1846 年(弘化3年)、京都の堀川で死去。ウィキペディアより。