宇波西(うわせ)神社

三方上中郡若狭町気山129 (平成22年7月26日)

東経135度54分32.06秒、北緯35度35分02.04秒に鎮座。

宇波西神社は、かつて北陸道唯一の官幣大社としてさかえた式内社です。
 祭神は鵜草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト:神武天皇の父)で、遠く日向(宮崎県)の国から日向湖(ひるがこ)にきたと伝えられています。もとは湖岸の森に鎮座していましたが、大同元年(806)久々子湖岸の三方町気山に遷座しました。中近世には上瀬宮・於瀬宮とも称し、春日大社の荘園の鎮守社でもありました。
 祭神由来の神話を伝える日向では、3月下旬に家祈祷(やぎとう)を行い、御幣立て・田楽の練習・御供米(ごくうまい)かしぎなどいろいろな準備をして祭日にのぞみます。
 当日の朝、神刀を捧持した出神家の当主を先頭に、警護・御幣さし・世話方などが3kmの道を宇波西神社へと急ぎます。当主はその由来により、神事が無事終わるまで神刀を両手で頭上にかかげ、祭礼を壇上から見とどけます。
 人々は豊作の祈願や感謝のために神に働きかけますが、祭りは神と交歓(こうかん)する場であることから、神事の際の華やかな民俗芸能が生み出されました。宇波西神社には、「田楽」「王の舞」「獅子舞」「浦安の舞」が伝えられ、それぞれの集落が神事芸能を毎年輪番で担当します。「田楽」では耳西郷気山の名主が頭になり,その頭人を記した頭文が文明17年(1485年)以来伝えられています。
(王の舞 宇波西神社の神事芸能より)

宇波西神社案内
御祭神うがやふきあえずの命(海漁と安産の守神)御鎮座と沿革。文武天皇の大宝元年(昭和五十一年で千二百七十五年前)三月八日、日向で初めておまつりしましたが、程なく今の療養所のある上野谷におうつりになりました。千余年前にできた延喜式の神名帳によりますと、当時北陸道七ヶ国にまつられていた三百五十二座の御祭神の中で、年に三回(新年祭、月次祭、六月と十二月新嘗祭)朝廷から幣帛を奉られたのは此の社だけであり、当時の名神大社でありました。建武元亀年間兵火の為再度焼失。天正年間今富の城主浅野長政が社殿を造営し、参道を寄進しました。国主酒井家から累代修理改築など篤い崇敬が棒ぜられ、現在の社殿は嘉永四年の造営です。御例祭四月八日午前二時から氏子各部落の古式豊かな献饌奉幣が相つぎ、正午からは県の無形文化財である王の舞、獅子舞、田楽舞、等古雅で優美な祭礼が奉納され おわって子供のみこしの御渡りがあります。

御祭神鵜草葺不合命(人皇第一代神武天皇の御父君)と伝えられ、御母豊玉姫命が海辺で鵜の羽などを葺草にまぜて産殿の屋根を葺かせられ、それがまだできあがらないうちに御安産あらせられましたので右のような御名を奉られたらしく、古来から漁猟又安産の守護神としてあるい崇敬をうけさせられています。
延喜式(千余年前にできた書物)の神名帳によりますと、「宇波西神社 名神大 月次 新嘗」と記されていまして月次・新嘗の祭と祈年祭(五穀豊穣祈願祭)の案上の官幣にあずかられましたのは、北陸道七ヶ国三百五十二座の御祭神中ただこのお社だけという得難い由緒を有せられています。
古伝によりますと文武天皇の大宝元年日向浦に垂跡あって同年三月八日に上野谷(現国立療養所官舎付近と伝う)に遷らせられ、一〇四年の後すなわち平城天皇の大同元年三月八日更に現在の地に御鎮座あらせられたことになっています。大宝元年から一千三百年になります建武元亀年間再度兵火の為に炎上、現社殿は嘉永四年に造営されたものです。
御例祭は御鎮座の目にちなんで今は一ヶ月後の四月八日に行われています。
御神木の大杉
周囲約十七尺・推定樹齢八百三十年先端は火災の飛火によって炎上しています。
境内由緒書より。原文はこちら。

大宝元年(701年)3 月8日、現在の若狭町日向で創建され、上野谷の金向山の麓に遷座した後、大同元年に現在地に遷座した。日向地区の伝承では、この村に住む漁師の六郎右衛門が湖で漁をしていると一匹の鵜が現れ、「湖の底に高貴な方がおられ、救いを求めている」と言った。鵜につれられて湖に入ってゆくと湖底に宝刀があったので、自宅に持ち帰り神棚に祀った。すると六郎右衛門の夢の中に鵜草葺不合命が表れ、自分を上瀬の畔に祀るように告げ、自分の国の名である「日向」をこの村の名にするように言ったという。宇波西神社の社名は「上瀬」によるものである。また、他の伝承では大宝年間に鵜草葺不合命が日向から出雲を通り、日本海を渡って当地に現れたとしている。日向地区は、古代に九州の日向国からの移住があったものと考えられており、方言や字名に日向国と共通するものが多い。
延喜式神名帳では名神大社に列し、北陸道の352座の神社の中で唯一、月次・新嘗の幣帛に預る神社となっている。
建武・元亀年間の2度、兵火により社殿を焼失した。現社殿は嘉永4 年に造営されたものである。
ウィキペディアより。

神社遠景と神橋

神社入口。境内はやや低い場所にあります。

一の鳥居と社額

手水鉢の由来。江戸時代、寛文年間は上瀬神社と書かれていたようです。何時から「宇波西」と書くようになったのでしょうか。

御祭神が鵜草葺不合命だからでしょうか、鵜の口から水が出ています。

二の鳥居と幣殿

本殿

まるで天に向かって吠えている様な出雲丹後狛犬。拡大写真はこちら。

鳳凰と龍

狛犬と象

本殿正面


小美多麻社

八幡神社

猿田彦大神

王の舞堂。無形民俗文化財「王の舞」が奉納される場所でしょうか。