六号神社

三方上中郡若狭町南前川(前川神社境内) (平成22年7月26日)

この神社は前川神社参道の北側に鎮座しております。由緒書は無く詳細は不明ですが、近くに佐久間記念館があります。

御祭神は第六潜水艇、艇長、佐久間勉以下十四名の乗組員の英霊と思われます。

六号神社
第六潜水艇殉難者
第六潜水艇は明治四十三年四月十五日、山口県新湊沖で佐久間艇長以下十四名が搭乗し、半潜行の訓練中艇の故障により水深十八メートルの海底に沈み浮上しませんでした。潜水艇が発見され、艇内の様子がわかりましたが、艇長以下十四名の艇員は死と直面しながらも、少しも部署を動かず見事な最後をとげました。
佐久間記念館・説明書きより。原文はこちら。

潜水艇を引き上げ後、佐久間のポケットから一冊の手帳が見つかったそうです。そこには、事故が起きた10時から絶命する12時40分までの艇内様子が39頁にわたり、克明に書き残されていたと云うことです。

1910 年(明治43年)4月15日、第六潜水艇はガソリン潜航実験の訓練などを行うため岩国を出航し、広島湾へ向かった。この訓練は、ガソリンエンジンの煙突を海面上に突き出して潜航運転するもので、原理としては現代のシュノーケルと同様であった。

午前10時ごろから訓練を開始、10時45分ごろ、何らかの理由で煙突の長さ以上に艇体が潜航したために浸水が発生したが、閉鎖機構が故障しており、手動で閉鎖する間に17メートルの海底に着底した。長時間たっても浮上しないことに気づいた歴山丸は、ただちに呉在泊の艦船に遭難を報告。救難作業の結果、16日(17日)に引き揚げられ、内部調査が行われた。艇長佐久間勉大尉以下、乗組員14人のうち12人が配置を守って死んでいた。残り2人は本来の部署にはいなかったが、2人がいたところはガソリンパイプの破損場所であり、最後まで破損の修理に尽力していたことがわかった。 ただし、歴山丸は安全面の不安からガソリン潜航を禁止していたと言われており、また佐久間大尉も、ガソリン潜航の実施を母船に連絡していなかった(学研「歴史群像」2009.8)。だが、この点が追及されたことは無いようである。また、事故調査委員会では、潜航深度10フィートと言う、シュノーケルの長さよりも深い潜航深度の命令があったと記録されているが、実際にそのような命令ミスがあったのか(このようなミスは考えにくい)、記録上のミスなのかは不明。

この事故より先にイタリア海軍で似たような事故があった際、乗員が脱出用のハッチに折り重なったり、他人より先に脱出しようとして乱闘をしたまま死んでいる醜態を晒していたため、帝国海軍関係者も最初は醜態を晒していることを心配していた。ところが、実際にはほとんどの乗員は配置についたまま殉職、さらに佐久間艇長は事故原因や潜水艦の将来、乗員遺族への配慮に関する遺書を認めていたため、これが「潜水艦乗組員かくあるべし」「沈勇」ということで、修身の教科書や軍歌として広く取り上げられたのみならず、海外などでも大いに喧伝された。特にイギリス海軍では教本になり、アメリカ合衆国議会議事堂には遺書の写しが陳列された。
ウィキペディアより。

願わくば諸君益々勉励もって、この誤解なく将来潜水艇の発展研究に全力を尽くされん事を。さすれば我ら等一つも遺憾とするところなし、謹んで陛下に白す。部下の遺族をして、窮するもの無からしめ給わんことを。我が念頭に懸るもの之あるのみ。遺書全文はこちら。

参道

鳥居と神額

社殿


佐久間記念館