神子(みこ)神社

三方上中郡若狭町神子 (平成22年7月30日)

東経135度50分28.6秒、北緯35度37分12.6秒に鎮座。

この神社は、若狭湾に突き出た、常神半島。一番先が常神、次が神子。海水浴場となっている海岸近くの路地を入った所に鎮座しております。入口には案内等無く、地元の方に尋ねる必要があります。入口こそ、漁港らしく極めて狭いのですが、境内は広く、緑に囲まれ落ち着いた静かな境内となっております。

神子神社 御祭神と由来
大山咋命
比叡山の地主神として崇敬され日吉大社の祭神で、伊香具神社の山王社に大音明神として祭られていたのを大音家の祖で伊香具大社(滋賀県木之本町)神主、安助の四男、安崇が嘉応二年(1170)神子、常神の領主に任ぜられ、この縁で、弘安六年(1283)伊香具神社から山王社を勧請し当社殿を建立し、以後左記の御祭神が奉祀された。
浜大神
この地の古老の、口伝によれば大昔(年代不詳)から神子(御賀尾)の、浜神社に鎮座され海上の守護神として御神徳を受けた者、少なからずいた。
建御名方富命
大国主命の御子で武勇に勝れた農耕の神で、諏訪大社の祭神であり延慶三年(1310)倉見荘代官、左衛門尉藤原盛世が諏訪大明神(長野県諏訪市)を勧請し、この地の産土神とした。
天照皇大神
皇室の祖神で日の神と仰がれ伊勢神宮の祭神であり、浜神社の境内に祭られていた。
誉田別尊
神功皇后の御子、応神天皇で、宇佐八幡宮の祭神であり全国に八幡信仰として崇敬されており、明治四十一年(1908)諏訪社境内の八幡社を勧請し産土神の諏訪社、浜神社、天照皇大神、山王社とを合祀して神子神社と改められた。
境内由緒書より。原文はこちら。

神子は、昭和44年の県道の開通までは、常神と共に陸の孤島であった。この集落には、平安時代から明治にかけての800年間に渡る歴史や漁村の生活を知ることができる貴重な『大音文書(おおともんじょ)』が残されている。多くの文書が桐材の背負い櫃に収められ、大音家に先祖代々守り継がれてきた。それらの文書334点、冊子110点は県の有形文化財に指定されている。
大音家は、所蔵の系図によると、近江の国伊香郡伊香村大音の、伊香具神社神主の四男神四郎安宗が、若狭国御賀尾浦(みかおうら、現神子)へ移住し、神子、常神の領主となり、刀称職を伝承しながら、姓を伊賀から賀茂、現在の大音に改称したと記されている。神子集落の先祖は、大音家一門と在来住民の合流といわれ、少しの田畑と山の幸、海の幸で生活してきた。元亨3年(1323年)の文書に「たて網」の記述があり、古くから漁業が主であったが、寛保2年(1742年)頃から藩の奨励によって桐実(ころび)の栽培が盛んになり、昭和初期まで続いた。
神子集落では限られた土地で生きるために、次男以下に漁業権や田畑が与えられず分家を許さない掟があり、戸数は長年に渡り36戸で変わらない。現在ではこのうち23戸が民宿を営んでいる。
神子という集落の由来は、御賀尾湾の「みかお」や、常神集落と共に、神にまつわる伝統や地名が多いこと、常神社に対して、神主の出である大音家から馬1頭をはじめ、高額の寄進をしていることなど、神と強く結び付いた歴史から、神の子の呼び名が最もふさわしいものとして付けられたように思われる。
若狭湾観光連盟公式サイト より。

神社入口

鳥居

鳥居後ろの出雲構え。拡大写真はこちら。

(明治44年(1911)12月建立)

境内

本殿