安波賀春日神社

福井市安波賀町15-13(平成24年6月2日)

東経136度18分09.44秒、北緯36度00分24.44秒に鎮座。

 この神社は一乗谷駅の南南東約460mに鎮座しています。
 入口には玉垣が廻され、「縣社春日神社」と記された社号標が立っています。平らな参道途中に一の鳥居が立ち、左手に手水舎が配され、神橋を渡ると、杉の大木やケヤキ、サカキ、シラカシ等の見事な社叢の中を、参道は初め真西に、踊り場を過ぎると南に向かい登っていきます。西向きの最後の石段を上がると木製の二の両部鳥居が立ち、境内真正面に、又かなりの勾配で滝殿社へと続く石段が見られます。社殿は境内右側に横向きに造られ、市指定文化財建造物の木造銅板葺入母屋造の拝殿と、三間社流造で千鳥破風と軒唐破風をつけ装飾的な本殿が、見事な姿を見せています。
 本殿左側には境内社の大地神社、稲荷神社が祀られています。
 又、本殿、大地神社、稲荷神社それぞれに笏谷狛犬が居て、私達狛犬ファンには喜ばしい限りの素敵な神社でした。

 御祭神:天兒屋根命、武甕槌尊、経津主命、比売大神
 祭礼日:10月20日
 境内社:滝殿社、大地神社、稲荷神社
 由緒:当社は、社伝によると、後冷泉天皇の御代、治暦4年(1068)の創建という。帝都東北鬼門鎮護のため建立されたと伝えている。
同年5月13日、当社勧請、卜部兼忠を奉幣勅使として、宜命の儀があった。以来後冷泉院勅願所となった。当時、当社は王城の鬼門であったため、社領三万有余石を寄せられ、越前国中第一の大社として、毎年勅使の参向が行われた。元暦年中(1148〜1185)、斎藤実盛の弟、実季が、春日絵を奉納した。
文和2年(1353)2月、朝倉広景が社殿を修補して神事能を挙行した。永享4年(1432)浦松左大臣重盛の女より願文があって、華表、鰐口、戸帳等を寄進された。
その後、国主、朝倉孝景(英林)が、深く当社を崇敬して、数多くの社領等を寄進し、祈願所とした。いよいよ国中の崇敬するところとなり、社運隆昌したが、文明年問遂に兵火にあい、孝景(英林)が、更に再建した。しかしついで、天正の乱が起って谷中大火災の際に、神主、吉田定澄も、御神体を奉じて難を江戸に逃れたという。松平氏治国の時に至って、松平吉昌が、元禄13年(1700)に社殿を再建、境内社たる滝殿社も造営された。
この時、中納言、藤原実種の奏聞あって勅額を賜っている。同11年、実種は、時の諸公に筆を取らせて三十六歌仙の額を奉納され、正徳2年(1712)10月、松平吉邦は社領五〇石を寄進した。以後、松平氏の崇敬篤く、毎年社参があって、上下の尊崇も極めて厚かったが、明治維新以後、社領が廃止され、足羽の清流に臨んで、古杉うっそうとして、建築も古雅なる社であったが、次第に衰えた。明治5年11月に郷社に列し、同8年6月に県社に列せられた。昭和63年に社殿・社叢・滝殿社が、市文化財に指定された。
(「福井県神社庁」公式サイトより)

社頭
神社入口
社号標「縣社春日神社」 参道の様子
参道途中に立つ一の明神鳥居 鳥居に掛かる額
手水舎
石段参道手前に架かる神橋
石段参道入口
石段参道は杉の大木やケヤキ、サカキ、シラカシ等の見事な社叢の中を、初め真西に、踊り場を過ぎると南に向かい登っていきます。
西向きの最後の石段を上がると境内入口となります。
境内入口に立つ木製の二の両部鳥居
境内の様子
市指定文化財建造物・木造銅板葺入母屋造の拝殿

市指定文化財建造物の本殿
福井藩7代藩主吉品によって元禄13年(1700)に再建されたと伝わる。三間社流造で千鳥破風と軒唐破風をつけ装飾的。
本殿縁にいる笏谷狛犬
江戸前期製作の典型的な笏谷狛犬です。太い紐が連なったようなおかっぱ頭と、やや上向きで真っ直ぐ前を向く顔、重量感のある身体と背に張り付いた尾等が特徴的です。
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(元禄10年(1697)丁丑9月吉祥日建立)

本殿左側に祀られる境内社
境内社:大地神社
大地神社縁にいる小さな笏谷狛犬
これで一対とは思えない大きさの違いがありますが、造りは殆ど共通しています。相方は変わっているかも知れませんが、存在そのものが嬉しいのと可愛いから、何でも許します。
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境内社:稲荷神社
稲荷神社縁にいる一体だけで後ろ向きの小さな笏谷狛犬
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