福井神社

福井市大手3-16-1(平成20年11月2日)

東経136度13分22.99秒、北緯36度3分45.66秒に鎮座。

この神社は、福井城跡の北西すぐに鎮座しております。福井藩主松平春岳を祀る神社ですから、この地が選ばれたものと思われます。

幕末の名藩主松平春岳公を祭神とし昭和十八年に我国最終の別格官幣社として造営された。昭和二十年に戦災で焦土となったが、昭和三十二年奉賛会の手により神明造りの神社として再建された。

当福井神社は昭和十八年我国最終の別格官幣社として創建されたもので、幕末に明君の名を謳われた福井藩主松平春岳を奉祀してある。幕末に際し時代の動向を明察して維新回天の事業に参画し偉勲をたてた諸侯は少なくないが、それらの多くは薩長土肥をはじめ所謂外様の諸藩であって、春岳の如く、親藩の雄鎮として宗家徳川に対する情誼を貫きながら、一面大義の確立に当ってはよく其の去就を誤ることなく、全藩一糸乱れざる統制のもとに数々の偉功を挙げた藩主は殆んどない。かつ当時の福井藩には明君春岳のもと中根雪江、鈴木主税、橋本左内、由利公正、笠原良策などをはじめ俊秀踵を接して出で、直接臣僚ではないが、有名な橘曙覧の如き歌人もその治下に現われて絢爛たる人傑福井を現出した。幕末維新の当時こそは、わが福井の歴史に於て最も光輝を放った時期といってよい。この意味に於て当社は又当時のわが郷土福井を表象する好個の記念堂ともいうべきである。なお攝社恒道神社は前記中根、鈴木、橋本の三臣を奉祀してある。
 当社は創建後いくばくもなく昭和二十年七月十九日の戦災によって総檜造りの壮麗な社殿をはじめ全域烏有に帰し、久しく荒廃したままであったが、市街も次第に復興して当社再建の機運が熟したので、福井大学工学部の設計に基づく新時代にふさわしい独創の建築様式を採り上げて工を進め
   昭和三十二年 神殿・拝殿・攝社
   同 三十三年 大鳥居
   同 三十五年 宝物殿
   同 四十年  絵馬堂
   同 四十一年 社務所
を逐次建立して、ここに全建物の完工をみるに到った。よってこの機会に当社の由来を謹書して奉納する次第である。
境内由緒書より。全文はこちら。

神社入り口

社号標と福井城跡。社標は創建時参道入り口に立っていたが、昭和二十三年の福井大震災の時濠の中に倒落し埋没していたようです。その後、昭和五十八年四月内濠浚渫の折発見され、これを引き上げ創建四十年祭に復元設置したそうです。

境内入り口。妙に潰れた感じがしますが、決して縦横比を間違えた訳でなく、本当に鳥居も社殿も低いのです。神社と云うより博物館といった雰囲気です。

典型的な籠神社型狛犬。多分神社創建と同じ昭和18年と思われます。拡大写真はこちら。

拝殿

本殿

恒道神社。御祭神は鈴木主税命・中根靱負命・橋本左内命の三柱。

松平春嶽公像