藤島神社

福井市山毛矢3-8-21(平成20年11月2日)

東経136度12分51.12秒、北緯36度3分9.88秒に鎮座。

 この神社は建武中興十五社の一社で、足羽山公園の東山腹に鎮座しています。新田義貞公等を御祭神として祀る神社で、良く整備された社域や社殿の神社です。

 御祭神:新田義貞公(贈正一位)、新田義宗公(贈従三位)、脇屋義助公(贈従三位)、新田義顕公(贈従三位)、新田義興公(贈従三位)、殉難将士
 祭礼日:例祭・8月25日
 由緒:新田義貞公の戦破地は現福井市新田塚の燈明寺畷と伝えられている。明暦年問(1655〜58)此の地から新田義貞所用のものと思われる兜を発掘したので万治3年(1660)福井藩主松平光通公はそこに「新田義貞戦死此所」と刻した石碑を建て、明治3年同松平茂昭公が同地に一祠を建立し、公を奉斎する官幣社の創建方をその筋に建議した。
 そこで同9年11月燈明寺畷の祠は別格官幣社に列せられ藤島神社の社名を賜わり、新田義貞公を主神として、新田義宗卿脇屋義助卿を配祀せらるる旨仰出された。12月15日同地の仮殿落成したので、勅使桐山純孝を遣わし御霊代を鎮安せしめられた。ここで始めて朝廷の祭祀を行わせられ、次いで同11年1月10日新田義顕卿同義興卿以下殉難将士を配祀せられる旨仰せ出された。
 明治14年11月23日燈明寺畷を南に距る13丁余福井市牧ノ島に社殿新に造り遷宮祭を行った。ところが同社地一帯は卑湿の地であり、当時九頭龍川の改修成らず、降雨に際し水害頻りに起こり、濁水神域を汚し奉ること一再に止まらない状態であった。それで同31年4月15日現在地をト定せられ移転することとなり奉遷会を組織し侯爵松平康荘を会長とし、全国官民有志協力して遂に同一34年5月22日社殿境域の工を竣り遷宮祭を行った。
 昭和20年7月19日戦災の為炎上御本殿以下主要建造物を失い、次いで昭和23年6月28日福井大震災の為残りの建物も崩壊し去ったが昭和31年御創立八○周年を記念して復興奉賛会を組織し、翌昭和32年11月12日竣工式を行った。昭和63年8月義貞公御殉節六百五十年祭斎行に当り記念事業として御本殿内陣の改装と神符授与所を新築し、又新に本殿玉垣を新設併せて境内玉垣も増設するなど境内の整備を行い漸く災害前の姿にまで復興した。 
福井県神社庁のサイトより

神社入口
社号標 境内入口と朱の明神鳥居
拝殿
拝殿内の様子

本殿
新田義貞公絵馬