大瀧神社・岡太神社

越前市大滝町13-1(平成20年11月2日)

東経136度15分19.36秒、北緯35度54分11.53秒に鎮座。

 この神社は武生駅の東約8km程の権現山山麓に鎮座しています。この社は下宮で、ここから約10分ほどで権現山の頂にある上宮(奥の院)への参拝が可能なようですが、今回は時間の都合上、下宮だけの参拝とさせていただきました。
 武生ICから262号線を東へ進み、北陸自動車道を越えて200号線から199号線に入ると、道路に大きな赤い両部鳥居が建っています。鳥居の側には、「縣社 大瀧神社」「岡太神社 大瀧神社」と刻まれた二基の社号標が建ち、さらに約500m程進むと境内入口に朱の台輪鳥居が建っています。
 鳥居を潜り参道を行くと、広い境内周辺には公孫樹や大杉が林立し、左手すぐに町文化財指定・木造十一面観音坐像が安置されている観音堂が建っています。堂内は薄暗く、暗がりに目が慣れるのに時間がかかりましたが、十一面観音坐像は静けさの中にも澄んだ凜としたお姿で、内面が洗われるような感動を覚えました。
 観音堂を出ると境内左手に石垣が組まれ、一段高く神門が建立され、回廊に囲まれて正面に見事な拝殿・本殿が建っている…筈だったのですが、現在は2009年5月に開催される第39回式年大祭(33年に一度の御開帳)に向けての整備事業の一環で、屋根の葺き替え等が行われている最中で、社殿全体像は拝見できませんでした。その代わり、足場が組まれた二階に上がると、普段は絶対に見られない複雑な屋根の構造、木鼻や側壁の見事な彫刻が間近で見られるという貴重な体験ができました。

 御祭神:大瀧神社・国常立尊 伊弉諾尊、紙祖神 岡太神社・川上御前(岡太大神)
 祭礼日:春例祭・5月3〜5日、秋例祭・10月11〜13日、式年大祭 (御開帳)・33年目毎、御神忌 (中開帳)・50年目毎
 境内社:(奥院)・八照神社、巌乃神社、(下宮)・護国霊社、氏子祖霊社
 由緒: 当神社は権現山の頂にある上宮(奥の院)とその麓に建つ下宮からなっており、奥の院には大瀧神社と紙祖神・岡太神社の両本殿が並び建ち、下宮は両社の里宮となっている。
 歴史の上では岡太神社が古く、今より千五百年ほど前、この里に紙漉きの業を伝えた女神・川上御前を紙祖の神として祀り、「延喜式神名帳」(926)にも記載されている古社である。
 一方、旧縣社・大瀧神社は推古天皇の御代(592ー638)大伴連大瀧の勧請に始まり、ついで、養老3年(719)この地を訪れた泰澄大師は、産土神である川上御前を守護神として祀り、国常立尊・伊弉諾尊を主祭神として十一面観世音菩薩を本地とする神仏習合の社を創建、大瀧児権現と称して別当寺大瀧寺を建立した。
 中世、児権現は白山信仰の霊場として栄え、四十八坊の堂塔、社僧七百余名を擁し隆盛を極めたが、織田信長の一向一揆討伐の際一山ことごとく灰燼に帰した。しかし、その後領主となった丹羽長秀を始め、江戸時代には初代藩主・結城秀康を初め代々藩主の崇敬篤く、兵火のため焼失した社殿も再建され、再度復興していった。
 明治になり神仏分離令によって大瀧児権現は大瀧神社と改称、また、大正12年(1923)には大蔵省印刷局抄紙部に川上御前の御分霊が奉祀されて岡太神社は名実共に全国紙業界の総鎮守となり、大瀧神社は昭和3年に県社に列せられた。
 このような世の移り変りにもかかわらず里人らの両社への信仰は篤く、神の御加護のもとに紙漉きの伝統を守り今日に至っている。
 現在の下宮の本殿・拝殿は、天保14年(1843)に江戸時代後期の社殿建築の粋を集めて再建されたもので、昭和59年にその歴史記録の確かさと建築の美しさとから国の重要文化財に指定され、更に平成4年に神門廻廊等が新たに造営された。
 背後の大徳山(権現山)は、里人はお峯と崇め、山全体が神体山である。山頂付近に奥の院三殿(右から岡太神社・大瀧神社・八幡宮)があり、簡素な構成ながら江戸初期から中期にかけての代表的な建物である。奥の院があるお峯一帯には大滝城跡が残る。南北朝の乱の終焉(暦応4年・1341)の地としても知られる。また、ご神木の大杉やぜんまい桜、ブナの大木が群生する社叢は、県の天然記念物に指定されている。
 大瀧神社・岡太神社の祭礼は千数百年の古いしきたりを今も連綿と受け継いでいる全国でも数少ない祭りで、特殊神事として、春例祭(「神と紙の祭り」)にはお下り(奥院〜下宮5月3日) 、湯立の神事、お上がり(下宮〜奥院5月5日)等の神事が、日本唯一の由緒ある神と紙のお祭りとして、全国の紙関係者が参列するなかで厳粛に執り行われる。又秋には秋例祭・お下り(奥院〜下宮10月11日) お上がり(下宮〜奥院10月13日)神事が執り行われる。
 又、33年毎の式年大祭・(本開帳)や、50年毎の御神忌 (中開帳)では「法華八講」などの行事が神仏習合の式定のまま厳修される。

 川上御前のおはなし
岡太川の上流に、ひとりの美しい女性があらわれ、「この村里は、谷あいで田畑が少なく、暮らしにくいところです。しかし、水清らかな谷川と、緑深い山やまにめぐまれています。紙漉きを生業とすれば、生活も楽になるでしょう。」と、紙の漉き方を教えてくださったという。よろこんだ、里びとが、「 どなたさまですか。」とたずねると、「岡太川の川上に住むもの。」と答えて、立ち去られたという。以来、里の人たちは、この美しい女性を川上御前と崇め、紙祖神として岡太神社に祀ったのです。
(「神社パンフレット」より)

「大瀧神社 紙祖神岡太神社」由緒書きはこちらで

199号線沿いに建つ社号標
「縣社 大瀧神社」
199号線沿いに建つ社号標
「大瀧神社 岡太神社」
神社の手前約500m地点に建つ大きな両部鳥居
来年5月に開催する第39回式年大祭(33年に一度の御開帳)に
向けての整備事業の一環で、屋根の葺き替えや塗装の
塗りかえが行われた様です。
神社遠景
神社入口 朱の台輪鳥居
境内の様子
神門前にいる招魂社系狛犬
神門と回廊 神門
神門から見る社殿
屋根の葺き替え等が行われている社殿には、足場が組まれシートがかけられており、前方からの拝見は不可能でした。
拝殿正面
扉上の額には「大瀧神社 岡太神社」と二社名が並列で書かれています。
拝殿向拝彫刻
躍動的な龍や狛犬が、所狭しと彫られています。
本殿 正面と側面
ここにも向拝下や側面の壁、脇障子に沢山の彫刻が施されています。
本殿前 縁にいる笏谷石製狛犬
建立年代が不明なのですが、こういう鬣の笏谷は見たことがないので、いつ頃の物か見当が付きません。上向きで潰れた扁平顔、上平歯が目立ち、後ろ脚の長さや爪の彫り方等が特徴的な、デフォルメ化が進んだ面白い狛犬ですね〜。
狛犬の拡大写真はこちらで

2009年5月に開催する第39回式年大祭(33年に一度の御開帳)に向けての整備事業の一環で、屋根の葺き替え等が行われている社殿。

修理中の屋根の様子
本殿側面左側の長押に彫られた狛犬三態 本殿側面右側の長押に彫られた狛犬三態
本殿側面左側の木鼻狛犬・象と狛犬 本殿側面右側の木鼻狛犬・象と狛犬
本殿側面左側の壁面彫刻 本殿側面右側の壁面彫刻
本殿側面左側の脇障子 本殿側面右側の脇障子
重要文化財に指定されている天保14年(1843)建立の社殿全景
拝殿・入母屋造向拝一唐破造、本殿・木造檜皮葺流造の重厚且つ華麗な造りの社殿。
 天保15年(1844)に予定されていた式年大祭(御開帳)に備えて造営されたこの社殿は、曹洞宗本山永平寺の勅使門を作り上げた一代の名棟梁大久保勘左衛門の手になる建築である。彼は最も美しい社殿建築を考えた。普通の神社は拝殿と本殿はそれぞれ独立して建てられる場合が多い。しかし、彼は一問社流造り本殿の屋根を入母屋造り妻入りの拝殿に連結して葺きおろした複合社殿を考案する。
 山の峰を集めたような、あるいは幾重もの波が寄せあうような屋根、複雑さの中に流れがあり、重厚さの中に躍動がある。拝殿正面の獅子、龍、鳳凰、草花の彫刻さらには側面、背面の中国の故事を題材にした丸彫りの彫刻などまさしく精巧を尽くした作品で飾られている。廻廊にたってこの社殿を拝するとき、なにか心引き締まる感慨を覚える。
 (写真・文「神社パンフレット」より)
再訪の折には是非この目で拝見したいものです。
境内社・護国霊社、氏子祖霊社
神饌所(旧神楽殿) 神門と回廊を社殿側から見る
現神楽殿 神門前から脇参道入口を見る
入口を出て左側に社務所があります。

境内左側に建つ観音堂
観音堂内の様子 市文化財指定・木造十一面観音坐像