御霊神社

越前市本多1-3-1 (平成25年10月18日)

東経136度09分57.65秒、北緯35度54分06.47秒に鎮座。

この神社は、福井鉄道福武線・越前武生駅の西600m程の辺り、旧武生の街中に鎮座しております。又、国分寺、総社大神宮はここより200m程南東にあります。

祭神は桓武天皇の皇子、崇道天皇(早良親王)。政争に巻き込まれ、いわれなく死に追いやられた早良親王の(早良親王は謀反の罪で皇太子を廃され、淡路へ流罪の途中死去した。その後しばしば祟りがあったと言われている)たたりを恐れ霊を鎮めるために、全国の国司に御霊神社の建立の詔勅が出されたという。
また、総社、国分寺と同じように御霊神社があるのは、その地に国府があった証拠といわれている。祭礼は六月五日六日で「ごりょうさんのおまつり」と呼ばれている。
武生市観光協会

祭神 早良親王(追號崇道天皇)
崇道天皇ハ人皇五十代桓武天皇ノ前東宮早良親王ノ諡號ナリ。桓武天皇御代天應元年醇四月四日東宮ニ立チ給フ。仝年五月五日蝦夷来寇ノ事アリ、親王勅命ニヨリ是ガ討伐ヲ完了セラレ凱旋セラル。
而シテ延暦四年乙丑秋十月中納言種告継ノ詭言ニ依リ淡路國ヘ流サル。親王ハ此ノ事ヲ怨ミ食ヲ断ツコト十八日終ニ薨去セラル。王法ナレバ石川恒守ヲシテ屍骨ヲ奉ジテ淡路國ニ葬リ奉ル。然ルニ其ノ後東宮(五十代平城天皇)御惱アリケレバ陰陽博士従五位下近衛少将丹波守是成ニ占ハシム(皇太子平城天皇)御惱アルハ廃太子早良親王ノ御祟ナリト判リ、延暦十七年戊寅三月淡路國ヘ勅旨ヲ遣ハサレ親王ノ骨ヲ迎ヘ奉リシニ其ノ効ナク其ノ後二度迠御迎ヘニ遣ハサレシガ、何レモ海ニ入リ漂ヒテ命ヲ失フ。三度目ニ早良親王ノ甥寄相五百枝王ヲ遣ハサレタル処無事到着シ直チニ怨霊ヲ迎ヘテ御慰メラレ延暦十九庚辰年九月詔シテ前東宮早良親王ヲ崇道天皇ト追號セラレ墓ヲ大和國八嶋寺ノ御陵ト称シテ山陵ト崇メ奉リ諸國ニ御社ヲ創建セシメ國忌奉幣ノ料ヲ賜ハリ其ノ怨霊ヲ鎮メ奉リヌ。
寶亀二年、仝四年、正暦五年、長保二年三年、諸國ニ疫癘流行シ殊ニ越前ハ之ガ為ニ死スル者多カリキ仍テ疫神ヲ祭リテ之ヲ御霊宮ニ合祀セシム。其ノ后天正二年十一月越前一向一揆ノ為ニ兵火ニカカリ本殿拝殿摂社等悉ク消失セリ。
文禄四年三月青木紀伊守悪病ニ悩ミシ時、五月五日ノ夜紀伊守ノ枕邊ニ小童立チテ言フニ『吾ハ桓武天皇前皇太子早良親王ナリ今汝ノ病ヲ拂フカラ我ヲ信ゼヨ』ト。紀伊守夢サメテ神託ナルコトヲ覚リ謹ミテ衾ノ下ニ神號ヲ称ヘシム。悪病忽チ癒エヌ。此ノ事世人ニ傳ハリ紀伊守ヲ始メ世人ノ信仰弥々厚クナリヌ。カクシテ紀伊守ヲ始メ世人ノ信仰愈々厚クナリヌ。
カクテ紀伊守ハ本殿ヲ再建シ五十石ト刀剣三振ヲ寄附セラル。
境内由緒書き より

神社入口

境内

拝殿

厳つい顔の金沢型狛犬。拡大写真はこちら。
(石工 和田 和吉 明治42年(1909)8月建立)

神額

本殿


末社