八幡浜市清水町 (平成26年12月22日)
東経132度25分46.52秒、北緯33度27分18.03秒に鎮座。
この神社は、八幡浜市役所の南東800m程の辺り、清水町の街中に鎮座しております。
御祭神 湍津媛命・大帯媛命・市杵島媛命・誉田天皇・田心姫命
由緒 | |
1. | 「八幡濱」、地名の起源である當八幡神社は、神功皇后三韓征討ゆかりの靈蹟に、八幡大神の神靈降臨ましまししを、奈良朝は養老元年(717)(皇紀壹、參77年)8月19日、神主始祖清家貞綱が、矢野郷參拾參箇村の總鎭守として、御創建申し上げた神社であります。 |
2. | 舊官幣大社宇佐神宮は、當神社の御分靈を奉戴して豊後水道を渡り、大分縣奈多濱に御上陸、景勝の地を求めて8年の後、現在の宇佐市亀山の聖地に、聖武天皇の神亀貳年(725)(皇紀壹、參85年)に、御鎮座になられた事は、=官幣大社宇佐神宮明細帳、宇佐八幡記、等=神祇史研究上最高の文獻史料により、明白であります。 |
3. | 日本全國で「八幡大神」を奉斎する神社は、約四萬五千社あります。當神社は其の内で、誉田八幡宮、宇美宮、香椎宮に次いで、「第四番目に古い」神社であります。 |
4. | 當神社の社叢境内一帶は、古來歌枕「矢野神山」として世に知られ、最古の歌集萬葉集に、柿本人麻呂の歌(巻壹〇・第貳壹78番)を始め、歴代の勅撰和歌集、有名歌集に數多くの名歌を載せられた名山舊蹟であります。 |
5. | 歌枕「矢野神山」と稱する處、他にも處々あり。宇和島藩主伊達村侯公は、御歌所司中納言冷泉爲村卿にその檢考を請われ、宮中御歌所の總力を挙げ、五箇年の歳月を費し、全國の名勝舊蹟を悉く調査御檢討の結果、後桃園天皇の明和6年(1769)(皇紀貳、四貳9年)の冬、=萬葉史蹟矢野神山は、伊豫國宇和郡八幡濱浦八幡宮なり=と、最高權威の御決定。「錦の御旗・御墨付」を賜りました。 |
6. | 昭和42年(1967)10月、御鎮座壹、貳50歳大祭斎行。奉祝・新改築多し。神徳日々に新に、神威益々赫々たり。 |
境内由緒書き より |
由緒
八幡浜の地名は「八幡大紳の鎮座する海浜の聚落」の意味で、当神杜の御鎮座と関係が深い。神功皇后三韓征討のとき、皇妹豊媛命が当地に来駕し、壮丁を募り、軍旅を整えたという由縁の霊蹟に、八幡大紳の神霊降臨し、元正天皇の養老元年8月19日神主清家治部大丈清家貞網が、矢野郷三三ヶ村(八幡浜市、西字和郡全域、大洲市のうち野田、平地を含む)の総鎮守として、奉斎、創祀した神杜である。宇佐神宮は、当矢野神山八幡宮より御奉遷し、豊後水道を渡り大分県奈多浜に御上陸、その後、景勝の地を求めて豊後、日向、肥後の各地を巡幸されること8年の後、現在の大分県宇佐都宇佐町亀山の地に御鎮座になったことは、官幣大杜字佐神宮明細帳、宇佐八幡記、県杜奈多神社明細帳、八幡宇佐御託宣集、八幡奈多宮縁起等により明確である。当八幡紳杜の境内一帯は矢野神山と称し、古くより紅楓麋鹿の名勝として知られ、萬葉集にも柿本人麻呂の歌「妻ごもる矢野の神山露霜に匂ひそめたり散らま惜しくも」を始め、歴代の勅撰和歌集に数多くの名歌を載せられた名山旧蹟で、後桜町天皇の明和2年に字和島藩主左近衛権少将藤原村候は深く大神の霊威を感じて、御歌所司中納言冷泉為村卿に検考を請はれ、宮中御歌所に於て審議調査検討の結果、「萬葉史蹟矢野神山は伊豫国宇和郡八幡浜浦八幡宮である」と確定、その祝として明和6年冬為村卿外九卿の矢野神山十景和歌一巻を献納された。当神社は往古よつ、弓矢冥加の守護神として名門武将の崇敬高く、治暦3年に伊豫守源頼義公は、同族河野親経に命じて鎌倉八幡宮に準じて杜殿を再建し、河野通有も弓矢の奉納あり、萩森城主宇都宮房綱も亦、杜殿の造営、祭費を寄進。宇和島藩主も代々尊崇篤く、なかでも村候公は、神杜祭具備品に、藩主家紋の使用を許し、廔々杜参し、祈願した。
昭和42年10月御鎮座一、二五〇年式年大祭執行・本殿桧皮葺屋根葺替、手水舎、神輿庫、宝物庫、郷土館を再建、杜殿境内を整備した。
愛媛県神社庁公式サイト より。
参道入口
一の鳥居
二の鳥居
三の鳥居
境内入口の浪花狛犬。拡大写真はこちら。 | |
(享和3年(1803)癸亥5月吉日建立) |
四の鳥居
石段左右の狛犬。拡大写真はこちら。 | |
(年代不明) |
拝殿
拝殿内部
本殿
末社
末社を護る狛犬。拡大写真はこちら。 | |
(安政2年(1855)乙卯3月吉日建立) |
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神功皇后