浮嶋神社

東温市牛渕584 (平成26年12月22日)

東経132度51分11.29秒、北緯33度47分11.31秒に鎮座。

この神社は、伊予鉄道横河原線・牛渕駅の南西800m程の辺り、牛渕の街中に鎮座しております。

御祭神 可美葦牙彦舅尊・大山積命・三神御面

由緒
当社は、浮嶋神と三島神をお祀りしている。日本三代実録の貞観9年(867)2月5日の条に「伊予国正六位上浮嶋神に従五位下を授く」とあり国史に見える神社、国史現在社である。浮嶋神は、弥生文化時代からの御祭神で、社地「王座」は物部氏の太祖宇麻志麻治命の降誕の浄地といい、崇神天皇の頃に天津社に列せられたと伝えられている。
伊予の豪族越智益躬は時運変遷により大三島神を合祀して氏神と仰ぎ、以後、越智息利、河野通清、白石三郎家員、牛渕太郎孝房等と名門の崇敬厚く、累世神殿の改築や神田の奉納等があった。保延5年(1140)には崇徳院の院宣によって道音寺、香積寺、西光寺、明照寺の4別当が置かれた。
吉野朝になって得能氏が館を設けて尊崇し、満良親王、懐良親王より奉幣があり、文中年中(1372~1375)には長慶天皇(寛覚理成法皇)が武運長久の祈願を執り行わせている。長慶天皇は当地の王座屋敷に滞在され、この地で亡くなられたといわれその御陵が残っている。また、長禄年中(1457~1460)には、河野宮忠義王が2年の間王座屋敷に滞在され当社を尊崇された。
天正14年(1587)長曽我部元親が当国に乱入の時、兵火にかかり社殿や旧記を焼失したが、慶長年中(1596~1615)に加藤嘉明が社殿を再建して三島大明神と称え、菖蒲祭の古式を復旧した。その後、代々の松山藩主は菖蒲祭を引継ぎ、藩の祈願所として尊崇した。
当社には、河野家から伝わる三神御面があり、代官は藩主の命を受けて三神御面に対して祈雨祭をしばしば執り行った。霊験あらたかで瑞雨を得ることしばしばあり、本殿や社殿の改築、鳥居、築山等の寄進が行われた。寛文年間(1661~1673)神主相原宗俊が、南梅本にあった三島宮を野田に奉遷して新に社家を興した際、三神御面を持参したのがもとで御面争議が起こり、寺社奉行の裁定により  牛渕・野田両社の隔年鎮座となった(御面渡御祭)。
明治2年(1869)に浮嶋神社と旧号に復し、明治3年郷社に列せられ、明治14年県社に昇格する。明治40年には神饌幣帛料供進することを得べき神社に指定され、愛媛県知事の参向供進を受けた。
当社の本殿庭には、磐座(いわくら)という三つの大きな自然石が配置されている。神社の社殿建築が行われる以前の古代祭祀様式の一種で、神様の御降臨を仰いでお祭りするための依代であり御神座である。当社では、中央に可美葦牙彦舅尊、左右に伊弉諾尊・伊弉冉尊をお祭りしてきたと伝えられている。
雨乞いに御神威を現されてきた三体の御面は、専門家からは鎌倉と室町時代に作成されたものと見られ、能面の前の時代の田楽や猿楽の面とされ、美術工芸的にも大変優れたものである。平成16年に「雨乞い三面」として東温市の有形文化財に指定される。御面は、御面渡御祭の日に一般に拝観を行っている。
当社の秋祭りには、練り行事が執り行われる。お練りは神輿渡御に付き従う行列で、250年以上前から行われている。猿女の君に導かれ、笛太鼓の調べと伴に相撲力士による大和働きの所作や槍奴による毛槍投げなど、175名と馬1頭で繰り広げられる。平成9年に東温市の無形民俗文化財に指定される。
愛媛県神社庁公式サイト より。

境内より160m程西に立つ一の鳥居

参道

参道途中の注連柱

境内入口。社殿は右、南を向いています。

境内入口の玉乗り狛犬。拡大写真はこちら。
(嘉永2年(1849)己酉8月建立)

拝殿

本殿


祖霊社・殉国英霊社 荒魂社

磐座

懐良親王歌碑
今朝見れば きのうぞ去年(こぞ)の かぎりなる 霞こめたり 浮島の原