土居神社

四国中央市土居町入野196 (平成26年1月5日)

東経133度25分12.68秒、北緯33度56分49.89秒に鎮座。

この神社は、市役所土井庁舎の南200m程の辺り、土居町の中心部のようですが結構長閑な風景の中に鎮座しております。

御祭神 底筒之男命(そこつつのをのみこと)・中筒之男命(なかつつのをのみこと)・表筒之男命(うはつつのをのみこと)・神功皇后(じんぐうこうごう)

由緒
当社は、貞観2年の創祀と伝えられ、旧号を井川大明神、又は井野河住吉明神と称えた。また、当所は太政官道の国府の要路にあたり昔からが景勝の地として知られ、寄進の歌句が多い。天正の頃は横尾山城守、及び藩政時代に西条藩の祈願所となる。*合祀の国吉、武城、金霊は国吉城主及び二家老を祀り、表都社は天正二年土佐より勧請したものである。(*現在は合祀殿・旧本殿に遷座) 明治6年村社に列せられたが、同43年の「一村一社」の勅令により旧土居村の4ヶ村の小字の3村社が、愛媛県指令社甲第14001号により合祀して、社名を土居神社と解消したのである。合併前、江戸時代の頃は、それぞれ貞観2年に難波住之江から勧請したという入野村の住吉三神・神功皇后を祀る住吉神社。亀山天皇元中2年の勧請と伝えられる浦山村の大山積神・多紀理比売神を祀る奥姫神社(勧請時は三島神社)。天正時代薦田備中守の祈願所であった畑野村の天之御中主神を祀る古社の大元神社の三社であった。
後の飯武の地名ともなった伊太祈曽大神を祀る残る一社の小字の土居村村社は、合祀後の神社の建設位置を巡って合意に至らず伊太祁神社として現在に至っている。合併した三社は、大正3年には社殿を改築、昭和8年には境内玉垣参道を整備した。
その後、95年を経た平成16年秋に、大正3年建築のこの瓦葺社殿は、伝統的木造建築を生かし社殿を包む大木と共に神域に共生した銅板葺唐破風・千鳥破風造りの社殿に改築されたのである。神社誌によれば、当時(江戸時代)の住吉神社の祀られた「入野の原」は、東西六十二間、南北百五十八間の一面*渺渺(びょうびょう)たる薄の生い茂る草原である。明治、昭和と山桜に染井吉野桜が多く植えられ、薄の草原から桜の名所となり、平成2年には「ススキが原入野公園」として二百余本の桜花が咲き綻び、遠近からの花見客で賑わっている。*渺渺(びょうびょう)広くて果てしないさま
その昔、当所の庄屋の住居跡の「暁雨館」や医王寺の「芭蕉・淡々両塚」など当社界隈の吟行や探訪の人等がシーズンには訪れている。平成7年には一茶来遊200周年を記念して、明和2年に『万葉に詠まれた「入野の原」は、歌神「住吉大神」の祀られた当国・当所である』と、京都の公卿に働きかけて入野を詠んだ和歌を下賜されるなど、一茶をはじめ多くの文人墨客の立ち寄るもととなった顕彰運動を展開した当時の庄屋や地元俳人たちの、ロマンを偲び、先人達の詠んだ俳諧、和歌の顕彰灯籠や歌碑・句碑を境内外に建立。
愛媛県神社庁公式サイト より

境内由緒書きはこちら。

参道入口と一の鳥居

参道

境内入口

境内入口の狛犬。拡大写真はこちら。
(昭和6年(1931)辛未1月吉日建立)

拝殿

拝殿内部

本殿


旧本殿・合祀殿

旧本殿の縁に居る陶器製狛犬。拡大写真はこちら。
(年代不明)

末社

神苑と俳諧碑