綾延神社

西条市丹原町田野上方1548 (平成26年12月19日)

東経133度03分24.90秒、北緯33度52分47.76秒に鎮座。

この神社は、今治小松自動車道・いよ小松ICの西3.5km程の辺り、丹原町田野上方の街中に鎮座しております。

御祭神 綾延姫命・品陀和気命(応神天皇)・息長帯姫命(神功皇后)・三柱姫大神

伊予国周敷郡田野郷六千石総鎮守 綾延(あやのべ)神社ご由緒略記
社伝によると、往古、西条市今在家の黒須賀の浜に漂着した綾延姫命は、土地の旧家汐崎氏に奉じられて田野の郷に移り住み、綾織りの技を伝えた。この地に没するや、里人は、生前の賢徳を慕って霊亀二年(716)墓辺に一祠を建立してお祀り申し上げたのが当社の創祀と伝えられている。それ故に、往古は墓辺社(はかべのやしろ)(墓辺神)とも称し、平安時代に入った元慶二年(878)には朝廷より伊予国墓辺神に「従五位下」の神階を授与されたことが『日本三代実録』に見えており、国史現在社(国史見在社)の一つに列した。
その後に宇佐八幡宮を勧請し、室町時代には墓辺社と八幡宮を併せ祀るとともに、応永二五年(1418)には河野通久より社領が安堵されている(社領安堵状)。また、近世には綾延八幡宮と称し、天正十七年(1589)の太閤検地に際しても周敷郡二社の一つとして、時の領主・福島正則より優遇された(野ロ文書)。さらには、慶安二年(1649)から明治維新に至るまで松山藩の祈願社の一つとして周敷郡代宮所から篤く崇敬され、毎年正五九月には藩主の武運長久祈祷を執行し、祈雨祈晴の祈祷に当たっては氏子中のみならず松山藩周敷郡中よりの寄進が相次ぐ(寄進台帳)など、道前地方の代表的神社として知られてきた。また、時々の入用諸経費は、「綾延米」と称し大庄屋の管理する代官所年貢米をもって充当する慣例であった(周敷郡手鑑)。なお、中古より道満寺、のち浄明寺を別当寺として付属し、これに神職二軒・神女二軒が奉仕する祭祀形態をとってきたが、明治二年に別当寺を分離して綾延八幡大神と改称した。さらに同一二年には綾延神社の現在社名に改めた。
また、近代の社格制度の制定とともに明治四年には郷社に、同十五年には県社に列したが、戦後は宗教法人となり神社本庁に所属している。なお、古くより旧周敷郡田野郷六千石・十二大字(田野上方・北田野・長野・石経・来見・湯谷口・志川・寺尾・安養寺・安井・明穂・大頭)の総鎮守として、さらには、ご神徳に因んで技芸上達のほか織物など殖産興業および安産の守護神として崇敬され、今日に及んでいる。
由緒書き より。

由緒
田野郷の総社である。霊亀2年8月28日綾延媛の墓辺に祠を建て、霊を祀り墓辺社と称したという。三代実録に依れば、元慶2年7月8日従五位下に叙せられている。
その後、延久5年8月15日源頼義が、豊前の宇佐から八幡宮を勧請して合祀し、墓辺社又は八幡宮と称したが、後に綾延八幡宮と称え、明治2年10月綾延八幡大神と改称し、同12年9月綾延神社と改める。明治15年県社となる。
愛媛県神社庁公式サイト より。

境内より南東400m程の辺りに立つ一の鳥居

参道

境内全景

神社入口

参道左右の狛犬。拡大写真はこちら。
(文政5年(1822)壬午8月建立)

随身門

随身門内の木造狛犬。拡大写真はこちら。

拝殿

拝殿内部

本殿


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