松山市天山2-2(平成20年3月27日)
東経132度46分56.12秒、北緯33度49分5.05秒に鎮座。
この神社は、松山南環状線と33号線が交差する天山交差点の南東300m程の辺り、天山(標高49m)の山頂近くに鎮座しております。
天山神社略縁起
祭神:天照皇太神・天櫛眞知命
社伝に云う天山神社は人皇十代崇神天皇五年(紀元前九十一年)天下饑疫す。天皇大いに懼れ群神を祀り給う時、久米麿「三輪田の祖」に勅して天櫛眞知命を久米吉井郷天山に祀らしめ神地神戸を給うとあり、続日本紀に称徳天皇天平神護元年(765)十一月使を天下諸國の神社に遣すと在り続いて神護景雲元年(767)2月天下諸社に神服を奉ると在り此の時も例に與り給う。徳川氏大政を奉遷し王政復古、明治五年(1871)五月神社沿革の際に当り村社に例せらる。
境内由緒書より
参道入口と社号標
伊予国風土記逸文によれば、 天から山が降って来た時、 二つに分かれて、一つは奈良の香具山、 もう一つがここの天山になったと言う。 因みに「あまやま」と読むようです。 |
八世紀前半に編集されたという地誌『伊予国風土記』逸文に、「伊与の郡。郡家より東北のかたに天山あり。天山と名づくる由は、倭に天の加具山あり。天より天降りし時に、二つに分れて、片端は倭の国に天降り、片端はこの土に天降りき。よりて天山といふ、本なり。その御影を敬礼ひて、久米寺に奉れり」と書かれている。
この記述によると、まず、「天山」は、伊予郡にあり、郡役所の東北にある。また、名前の由来は、もと天上にあった山が地上へ落ちてきたところ、途中で二つに分割されて、片方が大和(奈良県)の天香具山となり、他の一つが天山となったという。その時の天山の絵図を久米寺に奉納したというのである。
この久米寺の位置については、中ノ子廃寺跡、或いは国指定史跡来住廃寺跡の二説がある。
この天山の周辺には小丘陵が点在していて、皿ケ嶺を背景にして眺ある風景は、奈良県の大和三山に似ているともいわれている。
松山市教育委員会
すぐ近くに小さな山があり、大和三山に似ているようです。むしろ似ているからこそ、このような伝説が生まれたのでしょう。後の二つは土亀山(50.3m)と星岡山(74.8m)。中央からこの地に赴任した貴族が故郷の大和を想い涙を流したのでしょうか。
参道
地図を見ると、この右手が天山・山頂のようです。
怖い顔をした昭和狛犬。
(平成4年(1992)5月吉日建立)
拝殿
本殿
境内
境内より見る松山城。加藤嘉明がこの地に築城しようとした候補地は、勝山、御幸寺山、天山の三箇所だったと言う。御幸寺山は行っていないので分らないが規模を比較すれば本命は勝山で後の二つは当て馬か。地名から言っても「勝山」は縁起が良さそうです。