玉生八幡大神社

伊予郡松前町西古泉(平成20年3月27日)

東経132度42分47.28秒、北緯33度47分39.19秒に鎮座。

この神社は、伊予鉄道郡中線・古泉駅の北西700m程の辺り、エンゼル幼稚園の南東に鎮座しております。200mはあろうかと言う長い参道を持ち、参道途中の迫力ある狛犬等見乍ら、ゆっくり参拝出来る、そんな神社です。

玉生の読み方ですが境内由緒書に玉生石神(たもうふるいしのかみ)とあり、「たもうはちまん」と読むのか、しかし神社本庁の神社名鑑には「たまふ」とルビがふってあります。

御祭神:誉田別尊・玉生石神・三女姫大神・足仲彦尊・気長足姫尊

由緒:神功皇后三韓より還幸の際伊予松前の海で天神の託宣あり御佩玉を、南伊予村上野の地に納め久欺美玉と称し郡司が奉斎したが、後岡田村庄の内に移し久欺美玉宮と称した。また厳島の三女神を合せ祀り、貞観元年現在の地に遷し現社号を称す。河野家累代の尊崇の社なり。明治初年郷社に列す。
神社名鑑より。

主祭神 譽田分命(ほんだわけのみこと)第15代応神天皇
配祀・三女神(市杵嶋姫命、田心姫命、瑞津姫命)
  ・足仲彦命(第14代仲哀天皇)
  ・気長足姫命(神功皇后)
 ・玉生石神   
 仲哀天皇の九年(200)ころ、神功皇后が三韓におもむかれる時、当地を逍遥して、湧き出る清泉に戦勝を占い、布が濃紺に染まる吉兆にちなんでこの地を「濃染の里(こいぞめのさと)」と命名した。帰途、また船をとどめられ、天神の神託によって久欺美玉(くしみたま)を玉生林にまつったが、後世、郡司がここに社殿を造営して久欺美玉宮(くしみたまぐう)と称して崇拝した。
 文武天皇の慶雲四年(707)六月一七日、伊予の豪族小千玉興(おちのたまおき)・玉純(たまずみ)が厳島神社より三女神を勧請して久欺美玉宮に合祀し、日女宮(ひめみや)と称した。古事記・日本書紀によると、三女神は、天照大神が素戔鳴と八坂瓊の曲玉に誓ってうまれた神で、海の神となっている。海上交通が盛んで航海安全の祈願が行われたのであろう。
 清和天皇の貞観元年(859)の宇佐八幡宮の神霊を勧請し
   うれしくも 松の梢に 立寄りて 久しくここに 民を守らん
との御神詠により日女宮に合祀して、玉生八幡大神宮と改め、後、玉生八幡大神社と改称した。
 境内神社の玉生古宮(たもうふるみや)は、誉田別命をまつるが、12世紀から16世紀にかけて約四百年間、昌農内玉生にあった石清水八幡東宝塔院領荘園「玉生荘(たもうのしょう)」に勧請していた古社である。
 玉生八幡は、加藤嘉明の崇敬篤く、嘉明の松前城より松山城への移転は、玉生八幡の御宣託の夢占いによるものともいわれている。
 もとは、南面していたが、このころ西向きに改修されたという。
以来、産土大神として地域の尊崇がきわめて篤い。
松前町教育委員会。写真はこちら。

参道入口と社号標

参道途中の狛犬。拡大写真はこちら。

(明治25年(1892)1月建立)

まだ続く参道

境内入口 拝殿

玄武が支える手水鉢

本殿

西側脇参道入口

西参道入口の狛犬。潰れた顔で空を見上げる、笑える狛犬。拡大写真はこちら。

年代不明

玉生古社 若宮社

高良社・猿田彦ノ宮

絵馬殿