碇掛天満宮

今治市大西町星浦(平成20年3月26日)

東経132度54分28.76秒、北緯34度3分30.19秒に鎮座。

祭神:菅原道真公・天穂日命・白大夫
相殿:大山祇命・猿田彦神等十二柱

御由緒
仁和四年(888)三月讃岐の国の国守であった菅原道真公は官命により此の国の風俗を御視察のため瀧宮の官舎を御出立なさって、伊豫の国宇摩、新居、周布、久米、浮穴、温泉、和泉、風早、伊豫、喜多の地を巡り和気郡御津の港より海路にてお帰りの時、急に風が起こり波は荒れ船は木の葉の様に揺れ漸く此の浦に碇を止め危難を遁れ上陸され、コガの大木の茂れる下に紀伊の国より勧請せる天津神熊野皇太神を始め天穂日命を斎祀る古宮に菅公幣を奉り一首を詠じられた。
波乱波乱(ばらばら)と霰(あられ)ふる家の板庇 苔むすかたに音なしの宮
延喜三年(903)二月二十五日菅公御年五十九歳にて氏薨ぜられた。
天慶五年(942)九月二十五日当国司散位(三位?)河野伊豫守越智宿祢安家謹みて菅原道真公の御神霊を筑紫の大宰府より勧請し奉り菅公碇にて御難を除かれ碇石を残された由、社号を碇掛天神宮と称した。
当神社は他の天神社とは異なる慣行有りて、天正十三年(1585)九月まで国守河野家累代により社殿を御修復され国中御巡視の時には直直御来拝(礼拝?)され幣を奉る其の先規によりて国守加藤家蒲生家へかえりし後も旧例に習わし寛永十二年(1635)御当家御領(あづかり)の世となりても菅公御由来の古跡なれば殊更に尊敬も厚く勝山公にもよく御思召の事にて御子孫に傳えられ近きにありては太守公直直御来拝され遠方にては御近習御側士を御代参され神酒久米(米)等を献上せられた。
碇掛天神宮は福の神・学問の神様として天満大自在天神と称し文化の祖神と仰がれ人々に厚く信仰されてきた。後に碇掛天満宮と改めた。
例祭:五月十九日
参拝の栞より。

 宇多天皇の仁和四年(888)讃岐守であった菅原道真公が伊予国を視察、海路讃岐へ帰られる途中に大時化にあわれ、星浦の浜に碇を止めて上陸され、コガの大木の傍らにあった天津神に安穏を祈った。
 天慶五年(942)国司越智宿祢安家が大宰府より菅原公の霊を勧請し、難を除かれた碇石が残されたことで碇掛天満宮と呼ばれるに至る。碇石はサヌカイトで境内に祀られている。

神社入口と社号標

鳥居の前はJR予讃線。参道を鉄道で分断されたようです。

参道

国造りの神、寶来荒神社 山の守護神、大山祇神社

さらに続く参道

参道途中の玉乗り狛犬。拡大写真はこちら。

(昭和7年(1932)9月吉日建立)

参道 地鎮の守護、若宮神社

最後の石段と拝殿

本殿と社額

海上の守護神、保志崎神社・教導の神、御先神社