洲崎神社

館山市洲崎1344 (平成28年10月1日)

東経139度45分41.32秒、北緯34度57分52.89秒に鎮座。

【神社情報・1948さんより】
千葉県館山市洲崎の御手洗山に鎮座。式内社(大社)論社で、江戸時代に安房国一宮とされた。旧社格は県社。

御祭神 天比理乃当ス(あめのひりのめのみこと)
相殿神 天太玉命(あめのふとだまのみこと)・天富命(あめのとみのみこと)

御由緒
 神武天皇の御代、安房忌部一族の祖天富命が勅命により四国の忌部族を率いて房総半島を開拓され、忌部族の総祖神天太玉命の后神天比理乃当スを祀ったのが当社です。
平安時代の延喜式神名帳に式内大社后神天比理刀当ス神社とあり、元の名を洲ノ神(すさきのかみ)と称されていました。
 鎌倉時代の治承4年(1180)石橋山の合戦に敗れ房総半島に逃れてきた源頼朝公は、先ず当社に参詣し源氏の再興を祈願し、寿永元年(1182)には奉幣使を派遣し妻政子の安産を祈願して、広大な神殿を当社に寄進されました。
以降関東武士の崇敬篤く、里見家七代義弘は社領五石を寄進。徳川幕府も朱印状で安堵しています。
 室町時代には、江戸城を築いた太田道灌は、鎮守として当社の御分霊を奉斎したのが神田明神の摂社八雲神社の前進と伝えられており、東京湾をはさみ湾の西海岸に位置する品川、神奈川にも御分霊を奉斎藤する神社があります。
また、成田市鎮座の熊野神社境内には、明和2年(1765)建立の「諸国六十六社」があり、四方に一宮の社名が彫られており、安房国一宮として当社の社名が彫られており、広く信仰されていたことがうかがわれます。
 江戸時代後期の文化9年(1797)、房総の沿岸警備を巡視した奥州白河藩主松平定信は当社に参詣し「安 房國一宮洲崎大明神」の扁額を奉納されました。
当社公式サイト より。

境内由緒書き等ははこちら。

御朱印

文政三年(1820)庚辰六月吉日の旧社号標と新社号標

大鳥居、奥右側・長屋、左側・手水舎

手水舎

随身門

随身様

振り返って、厄祓坂(ここからは浜鳥居は見えず。洲崎海岸)

拝殿

扁額

内部

幣殿、本殿


右・神饌所、左・神輿庫

長宮

石宮

金毘羅神社

稲荷神社

稲荷神社安鎮之證(証)書・安永元年(1772)十二月