愛宕神社

匝瑳市八日市場ロ398 (平成22年8月4日)

東経140度33分19.9秒、北緯35度42分14.8秒に鎮座。

【神社情報・1948さんより】
JR八日市場駅より北へ、鳥居までは徒歩15分程です。鳥居と緩やかな坂の参道は敬愛大八日市場高校の東側に沿ってあります。ここから社殿までは個人の体力によりかなり違います。参道の階段がきつく長い、階段の途中にも手水舎が有り、ここで参拝を済ました人が居たのかと想像してしまう。

抑も愛宕神社の御祭神は天地開闢の最初に現れた神代七代の第一の神たる、国之常立神をはじめ、国狭土神・豊斟渟尊・宇比地邇尊・須比智邇尊・大戸道尊・大苫辺尊・面足尊・惶根尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊より、天照皇大神に至る十二柱の大神たちである。
本社の御創建・勧請の年代は不詳であるが現在の社殿は江戸の後期嘉永二年(1849)六月再建になるもので、その後百参拾余年を経た今日本殿、拝殿をはじめ風雪の痛みにたえない有様となった。ここにおいて区長氏子総代ら相寄り相議り現状のままに推移しては、神威を損ない畏れ多い、と百二十余戸の氏子区長に諮り異を唱うる者なく衆議一決し此度の大改修工事となった。御神徳の光被遍く及びたる故か氏人らの至情は集い挙り当初予算を超えて壱千六百万余円の奉納金となったために社殿の修築以外に参道石段の改修のほか、古くより境内社として祀られし、十二社神社、三峯神社の本殿、鳥居も新築修造しここに完工を見るに至った。
当社はその昔、愛宕山大権現の名の如く神佛習合時代は持福寺が別当であったが明治元年、神佛分離・判然の令により、愛宕神社と改称したものである。維新後持福寺は廃寺となり、神社の御神体たる白馬に跨りし白面の武将像(庶人はこれを御神体と称するが御神像と呼ぶべき美術品)はその後本寺たる福善寺に移されしものとの古老の伝えあり。今回尋ね求めたところ伝承は正しく同寺に現存していることを確認した。総代代表ら住職と折衝の結果福善寺第三十六世石井堯慧僧正の好意的御理解と英断により御神像は百十余年ぶりに本社に還御されることとなり、まことにめでたき極みである。これ偏に御氏子崇敬者一同の至誠の精神が、愛宕大神の御感応にあずかりしお陰と恐懼感激して記し置くものである。
愛宕神社境内社御改修祈念碑より。

創建年代は不詳。天保11年2月の大火の際に御神像「勝軍地蔵菩薩」が天馬に乗って石段を下り村(富谷村)への延焼をくい止めたと伝わっています。
その時に石段に付いた「ひずめ」の跡とされるものが御神木の前に保存されています。詳しくは匝瑳市公式サイト:伝説とむかし話し「愛宕神社の天満」

当時は愛宕山大権現と呼称し、別当は持福寺。明治元年に神仏分離し、愛宕神社と改称。持福寺は廃寺となった。
現在の社殿は江戸後期嘉永二年(1849)再建を昭和59年に改修したものである。境内社に十二社神社、三峰神社があります。

鳥居と社号標

参道

参道途中の手水舎

拝殿と狛犬

向拝下の龍

拝殿前の江戸流れ。拡大写真はこちら。

(年代不明)

本殿


御神木

愛宕神社御神像乗馬の「ひづめ」跡の伝説
天保十一年二月(今から百数十年前)夜八時田町より火を出し、田町坂下全焼。本町・門前町へと延焼し、見徳寺殿堂残らず焼失。失火は富谷村の境にまで達す。この時、愛宕神社の御神像「勝軍地蔵」白馬にて石段を下られ村への延焼を防護下されたと。このときの「ひづめのあと」と代々伝え継がれてきました。石段改修の折、移動してこの場所に安置の措置がとられました。

三峰神社

十二社神社

不明