御嶽(みたけ)神社

大網白里市養安寺 (平成21年11月21日)

東経140度19分13.4秒、北緯35度33分3.2秒に鎮座。

【神社情報・「狛犬小僧」さんより】
大網白里町の奥の奥のどん詰まりにあり、背後の裏山が小西城址である神社が、この御嶽神社です。数年後にはこの神社の背後に圏央道が通るので、現在の静寂は破られるでしょう。

神社西側の季美の森南5地区からなら直線距離200m程と近いのだが、此方は立ち入り禁止になってしまい入れません。南側の養安寺からなら、分かり難い狭い道を辿ることとなります。

御祭神 安閑天皇・少彦名命

由緒
伝説によると、第六十代醍醐天皇の御世の延喜十六年(916)に日蔵という僧侶が、大和国吉野郡金峰山の分霊を現在の場所に移したものといい、一般的には蔵王大権現と称している。昔は、神佛同体の説を唱えた時代であったが、明治三年三月宮谷県令達により神佛混淆を廃止され、御嶽神社と改称された。
例大祭日は正月、五月、九月の各二十六日である。
明治六年隣区小西の大火災による飛火の不幸に遭い、本殿に保管整備された貴重品並びに書類等総て灰燼となり、氏子総代・旧大和村古老の云い伝えにより茲に記す。
(以上 神社沿革による)原文はこちら。
(宮谷(みやざく)県とは明治二年二月から明治四年十一月まで存続した千葉県の元となる地方統治組織で、県庁は大網白里にあり、その範囲は北は常陸の一部にも及びました。久留米藩士であった柴山典が初代県知事です。)

蔵王権現(ざおうごんげん)は、日本仏教における信仰対象の一つ。インドに起源を持たない日本独自のほとけで、奈良県吉野の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られる。権現とは「権(かり)の姿で現れた神仏」の意。
蔵王権現は、役小角(えんのおづぬ、7世紀頃の山岳修験行者)が、吉野の金峯山で修業中に示現したという伝承がある。釈迦、観音、弥勒の三尊の合体したものとされ、今でも吉野の蔵王堂には互いにほとんど同じ姿をした3体の蔵王権現像が並んで本尊として祀られている。
役小角自体が伝説的な人物であり、蔵王権現の造像が実際にいつ頃から始まったのかは判然としない。
滋賀・石山寺には、本尊・如意輪観音の両脇侍として「金剛蔵王像」と「執金剛神像」が安置されていた。これらの像は、正倉院文書によれば天平宝字6年(762)制作されたものであるが、正倉院文書には両脇侍の名称を「神王」としており、「金剛蔵王」の名称は平安時代の記録に初めて現れる。これらの像のオリジナルは現存していないが、「金剛蔵王像」の塑像の心木が現存しており、右手と右脚を高く上げた姿は、後世の蔵王権現像と似ている。
吉野から出土した、国宝の「鋳銅刻画蔵王権現像」(東京・西新井大師総持寺蔵)は、銅板に線刻で蔵王権現などの諸仏を表わしたもので、長保3年(1001)銘があり、この頃までには蔵王権現の図像も確立していたことがわかる。
神仏習合の教説では安閑天皇と同一の神格とされたため、明治時代の神仏分離の際には、本山である金峯山寺以外の蔵王権現を祀っていた神社では祭神を安閑天皇としたところも多い。
『ウィキペディア(Wikipedia)』より。

管理人の一言。
現在地図を見ても住所になっている養安寺は見あたりません。明治の廃仏毀釈で廃寺になったのでしょうか。何れにせよ明治迄は蔵王大権現を祀った蔵王堂であり、別当が養安寺であったと思われます。

一の鳥居

内側からの一の鳥居

二の鳥居

石灯篭 力石か?

参道

手水舎。手水石は慶應四年。施主「何某」と書いてあります。

拝殿と狛犬

拝殿前の江戸尾立。天明の狛犬にしては保存状態も良好なようです。拡大写真はこちら。

(天明3年(1783)癸卯9月建立)

神額と木鼻

本殿覆屋