新勝寺

成田市成田1 (平成24年8月11日)

東経140度19分17.67秒、北緯35度46分58.27秒に鎮座。

【神社情報・1948さんより】
いまさら説明の必要もないであろうと思われるほど有名なお寺であります。正月の初詣客数は三百万人弱、明治神宮に次ぐ全国二位。関東では数少ない観光寺院かも知れません。

御由緒
千葉県成田市にある真言宗智山派の寺であり、同派の大本山のひとつである。本尊は不動明王。関東地方では有数の参詣人を集める著名寺院で、家内安全、交通安全などを祈る護摩祈祷のために訪れる人も多い。不動明王信仰の寺院のひとつであり、寺名は一般には「成田不動」あるいは単に「成田山」と呼ばれることが多い。

ご存じ、成田山。正しくは、成田山明王院神護新勝寺。朱雀天皇の御代、関東で平将門の乱が勃発すると、真言密教・広沢流の開祖にして呪者であった寛朝に将門調伏の白羽の矢がたった。天慶二年寛朝は23歳であったと言う。いささか若すぎるきらいはあるが、宇多天皇の孫と言うことと関係があるのだろうか。それとも母が藤原時平の女(むすめ)であったせいか。この時高雄山神護寺の空海作と伝えられる不動明王を担いで関東の地へ下向し、不動明王の力をもって平将門を調伏したという。そこが下総国公津ヶ原で現在は成田市並木町になる。一仕事を終えた不動明王は京へ戻るはずであったが、何故か急に重くなり動かす事が出来なくなり、やがて『この地にとどまり関東の鎮護にあたる』とお告げがあった。そこで寛朝はこの地に一宇を建立して、不動明王を祀り、京へ戻ったという。現在の新勝寺はこの天慶3年を開山の年としている。乱平定の後の永禄年間(1558〜70)に成田村一七軒党代表の名主が不動明王像を背負って遷座され、伽藍を建立した場所が、現在の成田市並木町にある「不動塚」周辺と伝えられ、成田山発祥の地と言われている。また「新たに勝つ」という語句に因み新勝寺と名づけられ、東国鎮護の寺院となった。その後宝永2年(1705)水戸光圀の御落胤という僧照範によって現在の地へ移されたという。将門調伏の為の寺だから、将門を御祭神とする筑土神社や神田明神の氏子は現在でも成田山へは詣でないそうである。

梅原猛の京都発見に、神護寺の坊さんから聞いたことがあるとして「ちょっと貸したはずなのに不動さんは帰らず、その代わり毎年、何某かの借料が神護寺に送られてくる・・・・」とあります。今でも続いているのでしょうか。

不動明王は元々、童子姿で大日如来の使者である。お釈迦様は平等を説かれたらしいが、流石カーストの国インド。仏も如来・菩薩・明王・天部と分類され、明王は如来や菩薩を護るのが本来のお仕事。この時代の武士のようなものか。不動明王は憤怒の相で、身は卑しく太り、インドでは被征服者であるドラビダ族の容貌をしている。
将門如き卑しい成り上がりを調伏するには、ちょうど良い仏だったのでしょうか。「夷を以って夷を制す」。やんごとない平安貴族の考えそうな事です。

江戸時代には、たびたび「出開帳」がおこなれ、深川永代寺で行われたのを初めとし、江戸時代を通じて12回の出開帳が行われた記録があるそうです。京へ帰る時には「急に重くなり動かす事が出来なくなった」お不動様。しかし「出開帳」の時には軽かったようです。

明治の初め廃仏毀釈の嵐が吹きすさぶ中、ここ新勝寺は「当方は印度の佛神などを祭っているのではない。我国神代の不動尊(うごかずのみこと)を奉祀するものである」と曲辯して廃業を免れようとした…」(「現代佛教 明治佛教の研究回顧号」S8.7.1より)・・・と苦労の甲斐有、廃寺を免れたようです。

以降、新勝寺はお札を通じて、民衆の戦争に深く関わった。当寺の「身代わり札」は「鉄砲玉から身を守る札」として日清戦争当時から軍人らに深く信仰されていた。満州事変から1945年の敗戦に至るまで、「成田市史年表」から拾い出すだけでも、33年から41年までの間に、歩兵第57連隊の兵士や近衛兵たちが10回以上も参拝し武運長久を祈願、お札を身につけている。 18代住職荒木照定は1928年に新更会を設立、「成田町報」などを通じて地域の民衆に対する「皇国伝統の健全なる思想」の教化に積極的に努めた。1938年には陸海軍に「新勝号」「成田山号」と名づけた戦闘機を献納、また真珠湾攻撃の翌日にはそれぞれに10万円を献納するなど新勝寺は積極的に戦争推進に加担し、同時にそれを布教活動に利用していた。
お札(身代わり札)
天保2年3月、仁王門棟上げ式直前、大工の辰五郎が高さ17メートルの足場から落ちたが、新勝寺の守り札が代わりになって真っ二つに割れ、本人は痛かっただけで怪我一つなかったという伝承に基づく。境内の「お札受け所」にも掲げられている有名な言い伝えである
ウィキペディア より

境内案内図はこちら。

平成24年11月17日、「横須賀市周辺を中心に神社巡り、狛犬を撮影、記録している」という方より追加情報を戴きました。*印が追加情報です。

平成26年4月13日「1948さん」より『釈迦堂前に居た犬に近い狛犬』が再度「奥山広場の門」より「薬師堂」門前に引越しされたという情報を戴きました。我々が知っているだけで三度の引越しお疲れ様です。

総門。平成20年に開基1070年祭記念大開帳が行われ、これにあわせて、平成19年11月には総欅造りの総門が落慶された。
開基は天慶3年(940)。平成20年は2008。若干計算が合わないが・・・・・

総門前の堂々たる江戸流れ。拡大写真はこちら。
(石工・五印兵衛 文化11年(1814)甲戌3月日建立)
石灯籠。台座に遊ぶ狛犬の拡大写真はこちら。
獅子は我が子を千尋の谷底に落とし、上がれる子のみを育てると言う。戦前、富国強兵の時代には良く造られた、獅子山。この精神、少し復活しても良いかも。拡大写真はこちら。
*(石業 紅葉丑五郎 庭師 山田政五郎 明治37年(1904)5月建立)

*これは石を彫ったりしたのが紅葉丑五郎氏で、獅子山を構成したのが山田政五郎氏なのではないかと思われます。

仁王門

石段上の優雅な江戸尾立。拡大写真はこちら。
(天明8年(1788)戊申9月初日建立)

参道

江戸の火消しの奉納。豪勢な狛犬です。拡大写真はこちら。
(嘉永3年(1850)庚戌9月28日建立)
参道途中の獅子山。拡大写真はこちら。
(年代不明)
燈籠。台座に遊ぶ狛犬の拡大写真はこちら。

本堂

ご本尊の釈迦如来

三重塔

脇参道階段

脇参道を護るブロンズの狛犬。拡大写真はこちら。
(石工・東京市京橋区桶町 水野 明治42年(1909)建立)

*台座の石には『東京市京橋区桶町 水野 明治42年』とあるようですが、ブロンズ像の台座には 『昭和38年9月吉日納之』 『武州篠津 金禄作』とあります。
この『金禄』とは、仏像やブロンズ像を作られていた立川金禄氏のようです。つまり、水野氏が作った狛犬は失われたか、どこかに移されており、その台座の上に立川金禄氏が鋳造した狛犬が置かれているようです。

釈迦堂

御朱印

釈迦堂前の江戸尾立。拡大写真はこちら。
(寛政10年(1798)戊午5月吉日建立)

天水枡。台座に遊ぶ狛犬の拡大写真はこちら。

燈籠。台座に遊ぶ狛犬の拡大写真はこちら。
石灯籠。台座に遊ぶ狛犬の拡大写真はこちら。
釈迦堂正面、一対の柱に素晴らしい狛犬の浮き彫りがあります。拡大写真はこちら。

光明堂

光明堂御朱印 平和堂御朱印

光明堂&坂東の先達のお坊さん・右は平和堂。

香炉と狛犬

左より、白山明神・金毘羅大権現・今宮神社

御朱印

参道

八代目、團十郎奉納の石灯籠。

歌舞伎役者の市川團十郎が成田不動に帰依して「成田屋」の屋号を名乗り、不動明王が登場する芝居を打ったことなどもあいまって、成田不動は庶民の信仰を集め、成田参詣が盛んとなる。ウィキペディア より

参道

社殿

左右の脇障子

清瀧権現堂・妙見宮

拝殿

玉垣内の狛犬。拡大写真はこちら。
*(正徳元年(1711)辛卯9月吉日建立)

本殿

御朱印


実は、管理人も嘗て(平成17年11月)参拝しておりました。当時釈迦堂前に居た、狛犬。というより犬に近い可愛い一対の狛犬が居ましたが、現在はなくなっているようです。先の東北大震災で倒壊したのでしょうか。

不思議な事に、釈迦堂前の狛犬と同じ、寛政10年5月の奉納。江戸っ子の意地の張り合いで、
わざと違うものを奉納したのでしょうか。拡大写真はこちら。
(寛政10年(1798)5月吉祥日)

*そして最後に『釈迦堂前に居た犬に近い狛犬』ですが・・・・ご安心ください、倒壊しておらず、今は土産物屋が軒を連ねる奥山広場の門に置かれております。

貴重な情報提供有難うございました。

*又々の引越し。成田山薬師堂 (旧本堂)の修復が完了し、平成25年5月に落慶法要が執り行われました。この時狛犬の引越しも行われたようです。

東経140度19分08.21秒、北緯35度46分44.98秒に薬師堂 は鎮座。

成田太鼓祭のせいか綺麗な前掛けでご機嫌。拡大写真はこちら。

貴重な情報提供有難うございました。