天津神社

習志野市屋敷3-12-17 (平成21年12月14日)

東経140度3分37秒、北緯35度40分40.2秒に鎮座。

【神社情報・1948さんより】
往古幕張の庄に千葉介常胤の子息、胤信公城主となり、子孫幕張の城主陸奥守平康胤の時代、領主の居城普請中幕張台(古代よりお屋敷台と言われていた)現屋敷町に居住することとなり、それ以後この地を馬加屋敷と称された。平康胤公は敬神の念厚く屋敷の里に天津神社を造営、天之御中主之大神さまを勧請奉斎されたものであります。
(社殿解説版より抜粋)

御祭神:天之御中主神
御由緒
往古、馬加(現幕張町)の城主が居城晋請中、当屋敷台に移り住み、その時、同城主によって天津神社を勧請したといわれる。
「神社のひろば」より。

天津神社は、神紋が九曜の中心の円のなかに日月のある紋であり、明らかに妙見を信奉する千葉氏系統の神社であることがわかる。

馬加城と領民の運命が大きく変わったのは、千葉介満胤の庶長子で、常陸の大椽氏に養子に行っていたが離縁して戻ってきた康胤が、千葉宗家が守ってきた幕張の屋形を修復し、居住するようになってからである。康胤は馬加氏を名乗ったが、これは幕張=「馬加」の地名に由来している。

この「馬加」は、素加天王神社(現、子守神社)の記録によれば、享徳元年(1452)の幕張大明神の祭礼に祭馬を多く集めたことから、神号を馬加大明神と改号し、里名も馬加に改めたことに由来するという。つまり15世紀半ばに千葉宗家筋の康胤が馬加康胤と名乗って、当地に城館を整備し、新領主として支配することになった。
(「古城の丘にたちて」馬加城とその周辺城砦 より)

管理人の一言。
多くの妙見宮と同様に、この神社も明治の世になり、妙見菩薩という外来の仏は嫌われ、天之御中主之大神を御祭神とする、神社にされたようです。

神社入り口

拝殿

拝殿前の江戸流れ。拡大写真はこちら。

本殿

浅間神社

由緒書