源太宮

習志野市鷺沼1-9 (平成23年10月1日)

東経140度1分44.63秒、北緯35度40分30.34秒に鎮座。

【神社情報・来戸さんより】
京成津田沼駅より徒歩10分程の所、鷺沼城址公園内に鎮座しています。習志野市役所脇の菊田遊歩道に鷺沼城址公園の入口があります。公園は鷺沼城址でもあり鷺沼古墳群でもあります。石祠は古墳の前方部分の斜面にあります。
小さな祠ですが話は広がります。鳥居の前に「「鷺沼源太満義諸武士之碑」が有りますが鷺沼源太光則と混同または光則の子孫として此の地に建てられたものと思われます。

御祭神 鷺沼源太光則 (来戸の独断)

鷺沼城址
津田沼町鷺沼区の西北方久々田に接する高台一帯の耕地は土人これを称して源太郎様と称す。此の地は即正応年間鷺沼太郎源太光義の居城にして周囲に高き城壁の跡あり。今其東部に道祖神あり。之れ正門の所なりと言傳ふ。而して源太光義の墓は高台南西端に當り二畝許の塚あり、土人これを尊敬す。
千葉郡誌 より

習志野の伝説
姉ヶ崎に着いた姉達に、弟の(藤原)師経卿が、久々田に着いたことを知らせるために、鷺沼源太光則という人が、久々田海岸の高台でのろしをあげて連絡したといわれている。その場所はカンノダイと呼ばれ、神の台、火の台という漢字が当てられている。
(歴史上の定説では、藤原師経卿が東国へ流されたことにはなっていない)
藤原師経卿一行は、久々田大明神、今の菊田神社にしばらくいた後、このあたり23村の総鎮守である下総の国二ノ宮といわれる、船橋三山の二宮神社に逗留した。
津田沼街道を歩く より

鷺沼城
鷺沼の豪族、鷺沼源太光則の居城址で、石橋山の戦いで敗れた源頼朝が安房に逃れ、千葉常胤に守られながら北上し、この鷺沼城で宿泊したといわれています。
(吾妻鏡に見える、石橋山の戦い後に頼朝が兵を整えた鷺沼旅館をこの鷺沼城に比定する向きがあり、この説が成立)
房総史譚 より

鷺沼城址公園入口、他にもあり。

「鷺沼源太満義諸武士之碑」

今を去る六百年前正応年間、伏見天皇時代、市川城主里見氏及び源太氏を始め下総十有城主一団となり、北条氏康と戦い、遂に利あらずして戦死す。然るに未だ其の霊魂の冥福を祈る事あたわず。依って、吾等相謀り慰霊碑を建て、之を祭る。 昭和三十四年3月責任者伊藤兵ヱ

鳥居

参道

_祠

源太宮